長崎と台湾のつながり
台湾の危機的情勢がツイッター上でも、盛んに流されている。
台湾の中国離れは、日本経済にも直結しており、やはり注目しなければならない国である。
台湾という国は日本と関係が深く、特に長崎はいろんな歴史もあり、再認識すべきだと思う。
台湾の歴史については、下記の分があるので興味のある方はどうぞ。
三菱と長崎 台湾の英雄鄭成功と台湾出兵
https://artworks-inter.net/2018/09/10/三菱と長崎%e3%80%80台湾の英雄鄭成功と台湾出兵/
国交断絶の国、台湾
こんなに関係が深いのに、日本と台湾との国交はない。
これは、二つの中国という話で、西暦1972年(昭和47年)日本政府と中華人民共和国政府の間で「日中共同声明」が結ばれ日本と中華人民共和国は国交を回復することになる。
その際、台湾にある中華民国政府と関係が断たれてしまう。それが現代まで続いている。
まあ、台湾自体も政権の変遷もあり、その時代の日本の政治判断なので、いい悪いを軽々しく言えないが、現在は蔡英文(さいえいぶん)時代である。
蔡英文総統は脱中国を目指しているので、日本も応援すべきだと思う。
さて、長崎と台湾の関係を述べる事にする。
三菱の台頭は台湾出兵から
ご存じ三菱財閥である。
土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会をベースに活動するが、躍進のきっかけは台湾出兵にある。
1871年、当時の琉球王国に属する宮古島の貢納船が台湾に漂着し、54名が台湾人の牡丹社という「生蕃」に殺害されるという事件が起こった。
その時明治政府は動く。
明治政府はこの事件に対して、清国政府に問い合わせる。
清国・・・琉球は中国の属国であるからその島民は日本人ではないとし、台湾の生蕃については清朝の「化外の民」であるから、関係がない
日本・・・琉球人は日本国民であり、生蕃にたいして清朝が処罰できないなら自ら討伐する
そして1874年3600名の台湾遠征軍を派遣した。
この時、遠征軍に協力したのが、三菱である。
政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否される。
日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れたため躊躇。
その間隙をぬって、三菱は日本国と強く結びつき、一気に三菱財閥の道を直進することになったのだ。
「国あっての三菱」の姿勢を貫き現在に至る。
台湾の英雄 鄭成功(ていせいこう)
昔、平戸市の観光課から依頼を受けて、台湾留学女子3人組の台湾観光案内風のムービーを撮影したことがある。
台湾人留学生が出会った平戸
https://youtu.be/svXb2eeVQjg
それで私は平戸に詳しくなった。
平戸には鄭成功記念館がある。あまり観光客の人は訪れていないようだが、歴史遺産としては重要なので、一度音訪れてほしい。
話は少し古くなるが、中国明王朝時代の話である。
鄭成功は、長崎の平戸で父・鄭芝龍と日本人の母・田川マツの間に生まれた。
幼名を福松(ふくまつ)と言い、7歳の時まで平戸で過ごしている。
鄭成功は、清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった人物である。
当時の台湾はオランダ東インド会社が統治していたが、オランダ人を一掃した功績も大きい。
政権を樹立したのは、鄭成功の息子を含めて約18年間で、その後清王朝に飲み込まれてしまった。
だが、西洋の植民地化に抵抗した数少ない人物であることは間違いない。
それにより台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」として社会的に極めて高い地位を占めている。
日本による台湾統治
1895年日清戦争の結果下関条約によって台湾が清朝から日本に割譲された。
それから約50年間、台湾は日本人によって統治されていた。
その統治時代がすべて素晴らしかったとは言えないが、現在もなお親日的であることは事実である。
西洋が行った植民地政策という事に対して、日本が行った統治は、根本的に考え方が違う。
これは、日本がやってきた事をみれば一目瞭然である。
■アヘン中毒患者が多かった台湾に対し「阿片漸禁策」という緩やかなやり方で、中毒者をへらすことにせいこうした。■疫病が蔓延していた台湾の衛生面を改善して伝染病の撲滅などに貢献した医学者の堀内次雄■品種改良を重ねて台湾の気候に合った「蓬来米(ほうらいまい)」を生みだした農学者の磯永吉と農業技師の末永仁■台湾中心部の日月潭(じつげつたん)という湖に巨大な水力発電所を建設して島内の工業化を支えた実業家の松木幹一郎■「烏山頭水庫」という巨大ダムの建設を指揮し、台湾南部の農業を変革した功労者として現在も台湾社会から深く尊敬されている八田與一
同じ日本統治を受けていた韓国は、戦後反日の道を歩み始めたのだが、この違いは、やはり国民性なのだと思う。
台湾には漢人と原住民が住んでいるので、日本統治もそれなりに困難の連続だった。
漢人からの抵抗や原住民との軋轢もあった。
そんなことも含めて、50年間の統治の結果、日本精神(リップンチェンシン)という言葉が生まれている。
お勧めの映画がある。
「セデック・バレ」二部作(2011年製作)
台湾の先住民族による抗日暴動を描いた映画だが、日本人に対しても公平な視線が全編に貫かれていて不快感はない。先住民族のことを知るにはお勧めだと思う。
台湾の先住民族による抗日暴動を描いた映画だが、日本人に対しても公平な視線が全編に貫かれていて不快感はない。先住民族のことを知るにはお勧めだと思う。
KANO 1931海の向こうの甲子園 2014年の台湾映画
日本統治下の1931年、台湾代表として全国高校野球選手権に出場し、準優勝を果たした嘉義農林学校(通称:嘉農=かのう)野球部の実話を描いた台湾映画。
日本統治下の1931年、台湾代表として全国高校野球選手権に出場し、準優勝を果たした嘉義農林学校(通称:嘉農=かのう)野球部の実話を描いた台湾映画。
ネタバレになるが、優勝をかけた試合で、投手の爪が割れるのだが、激痛に耐えて投げ切るシーンは、あの巨人の星、星飛雄馬の血染めのボールと同じである。原作の梶原一騎氏は嘉義農林学校の実話を参考にしたと思った。
台湾の英雄と日本
台湾の英雄は鄭成功、孫文、蒋介石である。
鄭成功、孫文は長崎との関係は深い。
蒋介石は、20歳で日本へ留学し、22歳で大日本帝国陸軍に勤務している。
第二次世界大戦後、戦勝国となった中華民国の国家主席だった蒋介石は、日本へ賠償請求は一切せず、さらには連合国による日本を分割占領に強く反対した。
また戦後台湾が中華民国へ返還された後は、日本人を捕虜としたり、虐待することなく、すぐ帰国の手続きをとらせている。
蒋介石の評価は分かれるが、日本に取った態度は友好的だったことは事実である。
中国に遠慮する日本
今回のコロナ禍で、中国依存の弊害が指摘され、世界情勢が再編成されていく時期にある。
いびつな親中派も多く感じられ、これからの日本を思えば心配の限りである。
そのせいで日本のマスコミや官の中では、中国批判はタブーらしい。
中国の問題は、現政権、中国共産党の施策で、中国人そのものと切り離さなければならない。
長崎県も、中国共産党が推し進めている明らかな反日の中国と、距離を置く時期に来ていることを知るべきである。
そんな意味でも、台湾と長崎の関係を知ることは大切だと思う。