台湾の歴史
今、世間でタピオカが大流行している(らしい)。
私は飲んだことがないが、タピオカパール、スターチボールをミルクティーに入れたタピオカティーは台湾が発祥である。
台湾は一度も行ったことはないが、なんとなく馴染みがある。
それは、よく食べていた台湾バナナや歌手のジュディ・オング氏が台湾出身だからである。
台湾は正式には台湾と言わない。台湾とは、台湾島を中心に定義される幾つかの地域としての名称である。
行政は中華民国である。
中国大陸のほうは中華人民共和国で、台湾は中華民国である。
2018年では中華民国を正式に国家として承認している国は17ヶ国だけで、それ以外は、中華人民共和国が中華民国を国家承認しないように要求しているため、他国の態度も不鮮明である。
それらのことを踏まえて台湾の歴史を調べてみたい。
台湾の起源
先史時代のヴェルム氷期、台湾はアジア大陸と地続きであり、この時代台湾北部に網形文化、南部や東部に長浜文化の遺跡が確認できる。
紀元前7千年ごろ、現地人に文化が広まったと考えられている。しかしその痕跡に関して不明である。
オーストロネシア語族の起源は台湾にあり、台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。
そして台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦5世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。
西はマダガスカル島から東はイースター島まで、北は台湾・ハワイから南はニュージーランドまでと非常に広く分布している。
オーストロネシア語をベースにして千前後の言語に別れ、広く分布しているのだが、言語間の類縁性がきわめて高い。
その言語の祖形を残すのが台湾原住民で、日本では高砂族と呼ばれている。現代では中国語(主に北京語)の影響が強く、原住民言語は消滅する傾向がある。
現在台湾で使われている言葉はいくつかに分かれている。
それは台湾人の構成でわかる。台湾人の約75%が中国大陸の台湾と接する人たちを祖先に持つ人達である。
この人達をびん南人という。この人たちの言葉は標準中国語と区別するために台湾土着の言葉とされている。
台湾人の10%は客家(はっか)人といい、原則漢民族である。
これらを合わせると85%が中国由来であり、残りの数%が中国とは関係ない台湾原住民となる。
つまり、その人の祖先に依って言葉が違うのである。この事を見ても台湾が複雑なことがよくわかる。
台湾原住民
台湾原住民は中国大陸南部に居住していたが、北方漢民族などの圧力を受けて台湾に押し出され、そこから南太平洋一帯に進出していったという説が有力だ。
つまり、ハワイの人たちも、イースター島の人たちも、もとを辿れば台湾が故郷ということになる。
中華人民共和国の歴史学者は、古くから中国人に東海(東シナ海)上にある島として台湾の存在は認識されていたと主張する。
台湾と中国大陸の間にある澎湖島(ポンフー)は、元代(1271年~1635年)に巡検司が設置され福建省泉州府に隷属したというのが確実な記録である。
台湾本島は近域を航行する船舶の一時的な寄港地、あるいは倭寇の根拠地だったと認識されていた場所である。
倭寇が台湾をベースにしていたことから注目され、その後漢民族、日本人が恒久的に居住し始めるまでに至った。
その後、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダやスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。
日本への鉄砲やザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。
フォルモサ
ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(フォルモサ 麗しの島)」と叫んだという。
豊臣秀吉は「高山国」宛に朝貢を促す文書を作成し、原田孫七郎という商人に台湾へ届けさせた(高山国とは当時、台湾に存在すると考えられた国名。 実質的には存在しなかった)。
また1608年には有馬晴信が、1616年には長崎代官 村山等安が、いずれも台湾へ軍勢を派遣したのだが成功していない。
これからわかることは、日本に台湾という国に、領土的な野心があったことは事実である。
記録で記されている台湾の領有勢力はオランダの東インド会社である。
1624年に台湾島の大員(現在の台南市周辺)を中心とした地域を制圧して要塞を築いた。
なお、同時期の1626年には、スペイン勢力が台湾島北部の基隆付近に進出し、要塞を築いて島の開発を始めていたが、東インド会社は1642年にスペイン勢力を台湾から追放することに成功している。
オランダ対スペインはオランダが勝ったのだ。
日本でも、戦国時代から江戸時代初期にかけての台湾を「高山国」、「高砂国」と称し、貿易をしている。
1628年(寛永5年)、台湾貿易をめぐり、オランダの植民地政府との間に紛争発生(タイオワン事件)、江戸幕府が平戸のオランダ商館を閉鎖した事件も起きている。
鄭成功
長崎の平戸には台湾の英雄、鄭成功(ていせいこう)の記念碑がある。
有名だと思うのだが、長崎県民もどんな人物か知らない人が多い。
「反清復明」を唱えて清朝に抵抗していた中国人と日本人の混血で、台湾を占領していたオランダ・東インド会社を攻撃し追い出した人物である。
鄭成功は、わずか7歳で海を渡り、21歳の時、明の隆武帝より明王朝の国姓「朱」を賜ったことから、人々は彼を「国姓爺」と呼んだ。
台湾・中国では民族的英雄として描かれており、特に台湾ではオランダ軍を討ち払ったことから、孫文、蒋介石とならぶ「三人の国神」の一人として尊敬されている。
この鄭成功の話は江戸時代でも話題になり、国性爺合戦という近松門左衛門作の人形浄瑠璃は大人気になっている。
台湾事件
この事件は色んな意味で大事件だった。
1871年12月17日、沖縄の宮古島船が遭難し台湾南端に漂着、上陸した乗組員が台湾原住民に襲撃され、うち54人が殺害される事件が発生した。
日本政府は、事件に対し清朝に厳重に抗議したが、原住民は「化外の民」(国家統治の及ばない者)であるという清朝からの返事があり、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、台湾出兵を行った。
これを「台湾出兵」という。
台湾は清、オランダが領有しようとしている場所である。その場所に日本が乗り込んで行く事になったのである。
これに対しては、日本政府内部、イギリス、アメリカの反対があったが、西郷従道(西郷隆盛の弟)は独断での出兵を強行し、長崎に待機していた征討軍約3,000名を出動させた。
その為には船がいる。
政府は軍事輸送を英米船会社に依頼したが局外中立を理由に拒否され、日本国郵便蒸汽船会社も軍事輸送の間に三菱に顧客を奪われることを恐れ躊躇したため、結局三菱が引き受けた。
三菱の蛮勇的な決断が、その後の三菱財閥のスタートになっている。
日本軍は台湾南部に上陸し本格的な制圧を開始したが、亜熱帯地域の風土病であるマラリアにかかり561名が病死したという記録が残っている。
琉球の日本帰属が国際的に承認
台湾出兵の発端となったのは、台湾に漂着した宮古島島民54人が殺害されたことである。
そして西郷従道が台湾に上陸し、原住民居住地域を武力で制圧し占領するという決着がついた。
結局、清国政府が日本軍の出兵に賠償金50万両支払うことと引き換えに、日本軍が撤兵した。
この事件により、日本と清国との間で帰属がはっきりしなかった琉球が、清国が日本軍の行動を承認したため、琉球民は日本人ということになり、琉球の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなったのである。
1895年4月、日清戦争後の講和会議で調印された馬関条約(日清講和条約)により、清国が台湾・澎湖諸島を日本に割譲。
そして日本は、1895年5月、台湾総督府を設置、植民地統治を開始した。
台湾統治時代
統治時代、日本が台湾に鉄道やダム、学校などのインフラを整備したことは間違いない。
疫病が蔓延していた台湾の衛生面を改善して伝染病の撲滅などに貢献した医学者の堀内次雄。
台湾南部で烏山頭(うさんとう)ダムと水路を組み合わせて広大な平野を一大穀倉地に作り替えた土木技師の八田與一。
品種改良を重ねて台湾の気候に合った「ほうらい米」を生みだした農学者の磯永吉と農業技師の末永仁。
台湾中心部の日月潭(じつげつたん)という湖に巨大な水力発電所を建設して台湾の工業化を支えた実業家の松木幹一郎。
台湾の人から「今の台湾があるのは、日本が当時(統治時代に)たくさん建設してくれたから、今の台湾がある。日本をすごく尊敬しています」という称賛の声がある。
日本統治時代の事をよく思ってくれる台湾人の人たちは多いが、文化の違いなどで起こる衝突は繰り返し起こっていることも事実なのだ。
すべての台湾在住の人たちが、親日ではない事だけは間違いない。
「セデック・バレ」という2011年の台湾映画がある。
1930年、日本統治時代の台湾で起こった先住民セデック族による抗日暴動・霧社事件を描いている。台湾では記録的なヒットをし、数多くの賞を受賞している。
この映画は、単なる抗日映画ではない。民族の誇りとは何かを描いている。
台湾の映画なので「セデック族」の勇者側に立って物語は進んでいく。原住民対日本人の構図が強調されすぎているとは思うが、右翼も左翼もこの映画を見て欲しいと思った。
台湾特別志願兵
大東亜戦争が起きると、台湾は日本の南方進出の前哨基地として重要戦略拠点として位置づけられる。
1944年4月以降に志願兵として軍務に従事した者は特に台湾特別志願兵とも称される。
特に台湾原住民志願者で編成された高砂義勇隊は南方のジャングルに慣れない日本軍にとって大きな力となった。
隊員は軍属であり軍人ではないとされつつ戦闘に参加し、戦死者の割合が正規軍よりも多かったといわれている。しかし各種の事情により、戦後の補償は十分に行われていない。
日本の敗戦までに日本兵として軍務に従事した台湾人は8万人を越え、軍属として徴用された者を含むと合計約21万人の台湾人が日本軍と共に戦った。
その内3万名以上の台湾人が戦死または戦病死している。台湾から戦地に赴いた その約21万人中、約6千人が高砂族だった。
日本の敗戦により、488,000余りの在台湾日本人(軍人166,000人を含む)の大半が本土に引き揚げ、28,000人余りが国民党政権の「留用者」として残った。
最後の台湾総督安藤利吉は、戦犯として上海に送られ自害。1946年5月の勅命により台湾総督府は正式に廃止された。
蒋介石
日本軍が去った後やってきたのは、蒋介石率いる中華民国・南京国民政府軍である。
中華民国軍が台湾に来てから、婦女暴行や強盗事件が頻発、行政公所の要職は新来の外省人が独占し、さらには公所と政府軍の腐敗が激しかったので、それまで台湾にいた本省人(台湾人)が公所と政府軍に反発し、1947年2月28日に本省人の民衆が蜂起する二・二八事件が起きた。
蒋介石は台湾に恐怖政治を敷き、中国国民党の政治・経済・教育・マスコミなどの独占が完了した上で、1947年に台湾省政府による台湾統治を開始している。
犬が去って、豚が来た
台湾人(内省人)は、新たな支配者に失望し始め、「犬(日本人)が去って、豚(中国人)が来た」と嘆くようになったという。
社会的には蒋介石とともに大陸から移住して来た外省人と、それ以前から台湾に住んでいた本省人との対立、さらに本省人内でも対立があった。
2004年の総統選では中国国民党・民主進歩党両党の支持率は拮抗していたが、僅差で陳水扁が再選を果たした。
混迷の原因の一つは中国問題で、中国は陳水扁を敵視し、国民党を支持することで台湾政界を牽制しているが、その過度な干渉となると台湾ナショナリズムを刺激し、反中国勢力が台頭するという中国にとっても難しい問題となっている。
2016年では民主進歩党の蔡英文が総裁なのだが、今後の先行きは見えない。
移民社会
台湾は、移民社会である。
もともと台湾島には、人口は小さいが文化的には多様なマレー=ポリネシア系の先住諸民族が居住していた。
オランダ人統治期になると対岸の中国大陸から漢族が移民してきた。
その後、日本人がやってきた。
日本人移民者は最終的には40万人に達し、「内地人」(日本人、主に大和民族)を頂点とし、次いで「本島人」(漢族系住民)、最下層に「蕃人」(原住民)という階層秩序が生まれた。
そして、中華民国の支配になる。
戦後、中華民国の一つの省である「台湾省」になり、1945年の「台湾光復」以前より、中国大陸各地から台湾に移り住んでいた人々およびその子孫の人々は「本省人」、それ以外を「外省人」という。
現代における台湾人の基本的ルーツが原住民に有るのか、漢民族に有るのか、はっきりとした結論は出ていない。
やはり複雑な島である。
現在は、強力な中華人民共和国が台湾を飲み込みにかかっている。
予断を許さない展開が、着々と進行していることも認識しなければならない。