横山桜と紅葉橋 旭町岸壁
旭大橋の旭町側の真下に石碑がある。
横山櫻と銘が打たれている。これは明治44年の長崎市長・横山寅一郎氏の事であり、稲佐沿岸の改良工事を手がけた功労碑だ。
明治時代の市長は選挙ではなく政府から選ばられていて、横山氏は2代、3代、4代と合計3期11年8ヶ月間市長だった人物だ。
ウキペディアにも項目があり写真があったので掲載させていただく。
明治時代の旭町は、ロシア艦隊の休息地となっていた為、「稲佐ロシア人休息地」通称「ロシアマタロス休憩所」が設置されている。
ロシア艦隊の乗組員向けの稲佐遊郭や、レストラン、ホテルなどロシア文字の看板を掲げた店が建ち並ぶ。
明治前半の稲佐では、小さな子どもさえ片言のロシア語を話すほどで、悟真寺の国際墓地の南側には、ロシア兵の射的場、ロシア語の新聞「ウオリア」も創刊されている。
色白の美人だった女傑 稲佐お栄
お栄は、入港する船が一望できる高台(現・旭町、旭橋近く)に敷地面積300坪のホテル「ヴェスナー」を竣工させる。
“ヴェスナー”はロシア語で「春」の意味。極寒の地、ロシアの人々にとっては「希望」を意味する響きだった。客室20、ロビー、宴会場、遊技場と、当時の最新の設備を備えた「ヴェスナー」は、連日連夜、カルタ遊びや酒宴が繰り広げられ大いに賑わった。
ナガジンと長崎商工会議所hpより抜粋
https://nagasakicci.jp/publics/index/321/
この時代の事は、「ながさき稲佐ロシア村」松竹秀雄 長崎文献社より出版されているので、興味のある方はどうぞ。(かなり詳しく書いている)
明治37年日露戦争が起こり、日本が勝つと、乃木希典大将とロシアのステッセル将軍が旅順開城の交渉をし、ステッセル将軍とロシアの将兵は、明治38年(1905)1月14日、長崎に上陸した。
その時も稲佐お栄は、延べ9408名のロシア軍捕虜を稲佐全域80軒で収容し世話をしている。
やはり、なかなかの女性である。
横山櫻に話を戻すが、そんな明治の時代の功労碑なのだが、この辺りの写真が残っていないのが残念だ。
多分当時も海岸だったので、岬みたいな場所に記念樹が植えられたのではないかと想像する。
紅葉橋
横山櫻の碑から旭橋の方に進むと、小さな橋があり、その名は紅葉橋という。
稗田橋バス停から続く川で何の変哲もない橋なのだが紅葉橋という洒落た名前が気になっている。
この橋が作られたのは昭和36年なので、横山櫻の碑とは関係ないのだが、桜と紅葉が海岸沿いにあるのが、妙にうれしい。
ちなみにステッセル将軍上陸の碑の近くにある橋の名前は、黄金(こがね)橋という。
誰が名付けたかは知らないが、昔の役人は結構気が利いていた奴かもしれないとニンマリしてしまう。