香焼の祠たち 栗辰天満宮、豊前坊社、堀池神社、岩立神社
香焼は、元来は香焼島と陰ノ尾島からなる離島だった。
戦前戦後の造船・石炭産業の活動等により海面埋め立てが進み、1960年代後半の県による臨海工業用地埋立により両島とも長崎市と陸続きとなり、長崎半島と繋がって半島化している。
香焼は私にとっても思いで深く、20年以上前に、香焼小学校のアルバム制作を7年ほどやっていたからだ。
学校アルバム制作は、学校の主な行事を撮影する。入学から始まり、運動会、修学旅行と子どもたち、先生たちとの付き合いも深くなり、特に修学旅行は、熊本と、北九州市のスペースワールドは定番で、子供達とともに、ジェットコースターに毎回乗っていた。
現在令和3年。昔撮影していた子供達はすでに成人しているはずで、みんなの家に卒業アルバムが有るはずである。
今回久しぶりに香焼を訪れて、懐かしく思い出した。
香焼三無事件
町の近年の歴史は戦前、川南工業(造船業)や安保炭坑によって栄えた島で、戦時中は日本軍に対して輸送船を大量生産していたという。
そこまでは知っていたが、今回調べると仰天の事件が起こっていたことを初めて知る。
1961年長崎市郊外の香焼(こうやぎ)島にあった通称、川南(かわなみ)造船所の関係者らが武力クーデターを計画。銃や刀で国会を襲撃して議員を一掃し、革命政府を樹立しようと企てた。
首謀者は造船所を経営していた川南豊作。永久無税、無失業、無戦争を掲げたため「三無事件」と呼ばれる。有罪判決を受けたのは旧軍人ら8人に及ぶ。
こんな事があったので、香焼は共産党の自治体として続いていたんだと知る。
香焼がいろんな記録に出てくるのは、徳川時代は佐賀藩・鍋島の支藩・深堀の所領だった時からである。
古くは文化5~7年に(1808~1810)に外国船に備えるため長刀台場が作られたと記録に有る。
また、キリシタンの歴史もあり、1812年外海町黒崎や樫山から移住した人たちが隠れキリシタンとなっていたとある。
香焼の祠
香焼町には4つもの祠がある。
その一つが栗辰天満宮である。
この祠は1773年の年号が刻まれていて、田畑の肥料として重宝がられていた干鰯(ほしか)の鰯漁が盛んだった頃に建てられたとある。
ただ、ここの鳥居と2基の祠は、公園建設のため、栗ノ浦地域が見えるこの場所に移転されている。
神額には栗辰天満宮と書かれている。
栗辰とはおそらく地域の名前だろう。ただ、天満宮というのが気にかかる。
大漁を願うなら、恵比寿様とか金毘羅様、弁天様など海関係の神様がいるのだが、ここは学問の神様とされる天満宮である。
天満を祀る大きな神社は日本中にある。どの県から来たのだろうか。
香焼にはこれ以外に、豊前坊社、堀池神社、岩立神社がある。
豊前坊とは正義の味方の天狗で、豊前は北九州市の東側、筑豊地方の東側、京築地方の全域、及び大分県北部から成る国である。
堀池神社には防州櫛ケ浜(山口県)の笠戸屋徳左衛門が寄進したと書かれている。肥料用の干鰯を出荷していた時代の香焼と防州の関わりを示すとある
岩立神社だけ不明で伊邪那岐命を祭神としているとある。ただこの神社の裏手には大きな岩があり、岩立という名前からして、この大きな岩が信仰になったと考えられ、おそらく地元の神社だと思う。
以上のことを整理すれば、狭い地域に由緒の違う祠が4つある。
天満宮は福岡、豊前坊は大分、堀池神社は山口、そして岩立神社は地元。
おそらく、鰯漁が最盛の頃、福岡、大分、山口の人間が香焼にやってきて、商売をしていたんだと推測できる。
香焼の鰯網漁関係資料
鰯漁が盛んであった頃、瀬戸内の各地の漁港や佐賀の早津江(はやつえ)方面から香焼島に来漁する者たちが多かった。主に関西方面や防州等(現在の山口県周南市付近)に出荷されていた。
https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000627.html
祠を見ると防州だけではなくいろんな地域の人間が集まっていたはずである。
この小さな祠の祭神がそれを物語っているのだ。