深堀 恵美須神社
深堀は、佐賀藩深堀氏の飛び地の所領で、歴史的に重要なものが多い地域だ。
戦国期、深堀純賢は西郷氏と協力して大村氏、長崎氏との抗争を繰り返している。
深堀氏はかなりの武闘派だが、長崎氏も踏ん張り、西郷、深掘の連合軍を迎え撃ち、長崎純景がこの地で連合軍を破ったことから勝山の地名が起こったという話が有る。
この地には忠臣蔵のような話が残っていて
江戸時代の元禄十三年(1700)十二月、深堀家臣と跳ねた泥が原因で町年寄の仲間と喧嘩となった。
その日の夕刻になっては、長崎の深堀屋敷(五島町)に押しかけ、三右衛門と武右衛門の大小を奪い取ってしまう。
深堀家臣は町年寄の屋敷(浜町)への討入り決行、十九人の加勢を得て討入り、町年寄の仲間多数を討取った。
討入り後、深堀家臣は切腹したという。
やっぱり、長崎と深堀は険悪な関係だったのである。
そんな地域にある恵比須様である。
場所は深堀郵便局から町側に少し行くと、船津公民館があり、その脇に鎮座している。
一目見るなり、笑ってしまった。
5人の恵比須様が色とりどりで並んでいたのだ。
その色合いが、ちょうど長崎の古賀人形の南蛮さんのようで微笑ましい。
ちょうど撮影している時に、幼稚園帰りの女子園児が拝んでいる。
これでもいいんだなと納得した。
場所は船津という地域。今は埋め立てられているが、昔はここのあたりまで、海岸線が来ていた証である。