滑石太神宮
住所は長崎市滑石6丁目1番11号。丘の上にあるきれいな神社だ。
一の鳥居の入り口に滑石大神宮社叢(なめしだいじんぐうしゃそう)の案内板がある。
この神社の森は照葉樹林で、数と種類が多く風致上また学術上にも価値が高いと書いている。
滑石といえば滑石団地で、昭和39年から滑石団地の開発が行われ、急に活気づいた街になった。この時の開発でこの地の自然はほとんど住宅地となり、滑石太神宮の杜だけが残ったのである。
由緒
御祭神は天照大御神。大村藩の氏神として寛文8年(1661年)に創設されたとある。
「滑石」という地名は、慶長4年(1599年)、大村氏によって作成された慶長高長の中に、「滑石村」「平宗村」として記録が残されている。
文久2年(1862年)の「滑石村」の人数は、608人だとも記録にある。
これらの記録から言えるのは、秀吉が死去したのが慶長3年(1598年)なので、世の中が徳川に大きくかじを切った時期に、滑石太神宮は大村藩の氏神として創設されたのだ。
この時代の長崎は、キリスト教禁教が厳しくなり、1597年キリスト教宣教師と信者26人が西坂で処刑(日本二十六聖人)されている。
滑石太神宮は西坂で処刑された4年後に創立されたのである。
となれば、神社創立は対キリスト教のために建てられたと言えるだろう。
この時期の大村藩は、4代目の大村 純長(おおむら すみなが)となっており、1657年藩内から大勢の隠れキリシタンが検挙される事件が起こっている。
こんな事件が起きれば、取り潰しの理由としては十分であったのだが、直ちに幕府に報告、この行為が殊勝とされて、大村藩は全くお咎めなしであった。その後はさらにキリシタン処罰、および領民に対する仏教改宗政策を強化した。
そんな大村藩である。滑石地域はそれほど村民がいないにも関わらず、滑石太神宮を創立している。
太神宮とは、本来格式の高い名称なのだが、この地域の隠れキリシタンを遠ざける為にも、大きな名前をしたのだろうと推測できる。
滑石という地名
この歴史については以前書いたことがある。
滑石の謎 太神宮が存在していた理由
滑石大神宮に、夫婦岩が祀られている。
言い伝えだと、「なめら石(夫婦岩)が流れる時は、滑石村も流れる」とあり、なめら石とは井手の堰(せき)の事なのである。
川の水の増水を防ぐため、田んぼには水の取り口に堰が作られている。
その堰の種類が「芝堰」「板堰」「滑石」なのである。
なので言い伝えは、川が増水し「芝堰」「板堰」が役に立たなくて、最後の「滑石」が崩れたら、洪水になるという事を書いている。
きっと大昔、大洪水があったのだろう。
もう一つ思いついたのが、滑石とは「ろうせき」の事をいう。
日本古来の装飾品に勾玉があり、その材料が翡翠、瑪瑙、水晶、滑石、琥珀などである。
滑石地区にはそれらの鉱物が取れたとは記録にないが、五島には上質な蝋石が算出している。
また、西海市にあるホゲット石鍋製作遺跡だが、この石鍋は蝋石で作られている。
なので、滑石地区は、この蝋石の加工地ではなかったのかとも思う。
そうなれば、勾玉も作っていたことも想像でき、滑石太神宮の昔の由来につながるのではとも空想している。
まあ、大村藩がこの地に滑石太神宮という天照大神を祀る神社を創設したことは間違いないのだが、太神宮と名付けた理由が、この地にあったと思うのだ。
この地は長崎最古の神社、岩屋神社とも近い。有り得る話と思う。