乙宮神社

式見港

式見港の小高い山に乙宮神社がある

乙宮神社

乙宮神社から観た風景

場所は式見港にある。今は埋め立てられているが、神社の入口に千切島とあったので、昔は島だったのである
 
長崎市ではここだけだが、上五島には3箇所ある。それ以外にも佐賀、福岡、熊本にあり、祭神や由来も様々だ。
 
神社名を「おとみや」と読んでいたが、県外の地域では「おとぐう」と呼んでいる神社が多い。
 

乙宮神社

乙宮神社

乙宮神社境内

乙宮神社 神殿

神社の外見は立派である。拝殿の屋根を見れば伊勢神宮のようでもある。
 
境内は広く、隅に神功皇后らしき石像を祀った祠があるし、日の丸が掲揚されているところを見れば、天照系なのはよく分かる。
 

乙宮神社 境内

乙宮神社の鳥居

鳥居には皇紀二千六百年建立と彫られている。
 
皇紀とは神武(じんむ)天皇が即位した年を推定し、そこからの暦のことで、皇紀2600年は1940年(昭和15年)にあたり、全国的に祝典が開かれている。
 
昭和15年の日本は、日中戦争の戦時下であり、翌年12月8日に大東亜戦争が開戦される。
 
日本の伝説の名飛行機ゼロ戦は、この皇紀2600年に作られたので零式と名付けられたのは有名な話である。
 
この時代に式見の乙宮神社が建て替えられたかは不明だが、鳥居だけはそのようである。
 

乙宮神社

神社入り口には、式見乙宮神社の絵馬を説明した看板が立っている。
 
拝殿には入れなかったが、大村領式見浦手代として着任した藤原綱豊(つなとよ)が奉納したとある。
 
説明には万延元年(1861年)式見が干害で住民が困窮している実態を見て甘藷栽培、 加工食糧保存を指導した人物であると書かれており、なかなかの名主だったようだ。
 
ネットでは乙宮神社について、ほとんど何もわからなかったが、「わが町の歴史散歩」の中に由来が書かれていた。
 
乙宮神社は、最初神楽島に祀られていたが、信仰に不便なため、相川町の矢筈岳(やはずだけ)に移し矢筈権現とした。その後天正年間、現在地の千切島に移し、乙宮権現と改称し、さらに明治三年乙宮神社としたとある。
 
乙宮の由来は、スサノウが天照大御神の弟なので、弟宮が乙宮になったと言われている。
 
なるほど。
 
最初は神楽島、その次が山の矢筈岳(やはずだけ)、そして式見の千切島という変遷があったのだ。
 
神社の変遷はよくあるが、やはりその地域に厄災や自然災害が起こった時に行なわれる。
 
式見の地に何があったのかは記録にないが、この権現様はこの地域の氏神だったのはわかる。
 
乙宮神社の祭神は、確かにスサノウなのだが、どうも後付のような気がする。
 

乙宮神社

乙宮神社

乙宮神社

神楽島には、神功皇后に関する言い伝えが多く、三韓を討伐に行く際に神楽を舞ったともある。
 
もともと神楽とは、日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞の事である。
 
「かぐら」の語源は「神座」が転じたとされる。
 
この神楽は神道でも仏教も行う。
 

神楽島

最初に乙宮権現があった場所の神楽島には神楽島神社というのがあるようだ。
 
この小さな島に信仰があったとすれば、それは海の神様のはずである。
 
乙宮という字を見れば、竜宮城の乙姫様が連想される。
 
乙姫様を始めとする海の神様の海神信仰は、各地にあるが、対馬や五島にもたくさんあり、色々変化して各地に根付いている。
 

式見の地名

式見の地名は『大村郷村記』によれば、当地は古くは「樒」「志幾見」とも表記されている。
 
「樒(しきみ)」は、葬儀のとき、主に仏教において使われる花・植物である。
 
その植物の樒が群生したので、「しきみ」という地名がついたのだろう。
 

樒は非常に長持ちをして、香りも強く、昔から仏事において非常に大切にされてきたという。
 
その事により、式見は仏の信仰の場所になり、また漁港でもあるので、乙宮信仰が生まれたと想像できる。
 
乙宮信仰が何なのかは不明だが、竜神の娘である乙姫様だとすれば、乙姫のモデルと言われる豊玉姫かもしれない。
 
豊玉姫は神武天皇の父・鵜草葺不合命の母であり、素戔嗚尊とつながるが、素戔嗚尊が天照大御神の弟だから乙宮というのは、どうも納得できない。
 
もっと根源的な原始信仰があったのが、その時代や場所の都合で、神様の名所を変えただけのような気がする。
 
もっとも、何も確証はないのだが。
 

乙宮神社 拝殿

バリバリの神道の神社になっているが、神殿の前の垂れ幕に卍の紋が付けられている。
 
乙宮権現の名残である。
 
これを見れば、神仏混合の時代、いやもっと前の古代の神を祀り続けた証だと強く感じる。