十人町 天満宮 筑前の遠見番士が祀る
新地の湊公園前のローソンの左側の道の階段をやや登っていくとある。
少し行くと左手にユダヤ教会堂(シナゴーグ)跡の説明板がある。少し登ると、今度は「学問ロード」を美しくという立て看板があった。
学問ロードとは何だろうかと思ったら、これから行く天満宮への道だからだと気づき苦笑。
もう少し登ったら、右手に鳥居が見えた。
石の鳥居で、境内はコンクリートで固められていて狭い。鈴やしめ縄、賽銭箱はない。
拝殿入り口は縁台のようで、格子の戸が入口になる。拝殿を覗くと板張りに太鼓と暖房器具が置いてあった。
神殿はどうかと社殿の後ろに回り込んだら、あるんだが人家でよく見えない。
狭い境内に手洗いの石と、鳥居を建てた方の顕彰碑、あと石垣に祠があったが、何を祀っているのかは不明。
ただ、境内から下を見ると洋館が見える。これだけで長崎らしさがアップされた。
あと神社の先に登る石段には電動手すりが設置されていた。
斜面地移動支援機器 SARUKU(さるく)というらしく、産学連携事業の実証実験だと書いている看板があった。
ふーん。電動手すりか。誰か使う人がいるのだろうか。お役所がやることは、大真面目な滑稽さが付きものである。
祭神は菅原道真で、学問ロードと呼ぶように学問の神様になっている。
建てられた由来
野母遠見番所が置かれていた万治年間、筑前(福岡)出身の遠見番士が常盤町の山中に天神様の木造を安置した。
やがて付近住民もその山を天神山と呼び、その祠を十人町天神様と称して信仰されるようになり、明治以降も十人町の鎮守神として今日に至っているとあった。
万治年間とは江戸時代の1658年から1661年までで、江戸幕府の第4代将軍の徳川家綱の世である。
この時期は鎖国政策がスタートしていて、一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から1854年までとなっている。
最近は、鎖国の概念が見直されている。ただ外国との交流を制限していたことは間違いなく、遠見番と呼ばれる外国船監視は常勤となっている。
十人町の町名は、野母遠見番所で働く遠見番十人の官舎が置かれていたことに由来しているとある。
まあ、筑前(福岡)出身の遠見番が天神さまをこの地に持ち込んだわけで、十人町の天満宮は、天満宮の本場からやって来たとも言えるだろう。
遠見番所仕組みが載っていたので記する。
野母遠見番所で外国船影を発見すると、直ちに早舟などで小瀬戸番所に伝え、そして梅香崎番所がこれを受け継ぎ、筑後町の永昌寺内の遠見番所に通報する番士が立山役所に通報したとあった。
野母遠見番所→小瀬戸番所→梅香崎番所→筑後町の永昌寺内の遠見番所→立山役所。
まさに伝言ゲームである。
十人町は新地にも近く、外国人居留地の雰囲気もところどころにある町である。
ただ長崎市の観光行政が、この天満宮を観光資産と捉えている雰囲気が、少々うざいような気がする。
学問ロードというネーミングもなんか嫌である。
ここの神社は小さいが歴史もあり、地元の人の信仰もあるらしい。
何でもかんでも観光に結びつけるのはやめて欲しいものである。