多良見町西川内 天満宮 神と仏を祀る
近くに喜々津川が流れている。西川内というバス停もあるようだ。このあたりはよく知らないのと、グークールマップのとおり進んでいるので、実は場所を正確に伝えることは出来ない。
ただ、山に続くコンクリートの道を進んでいると、鳥居を見つけたという感じである。
鳥居は立派で、柱には大正10年という文字が読める。
参道の植木も刈り込まれていてキレイだ。30メートルほど進むと、二の鳥居をくぐり広い境内に入る。
立派な石灯籠が左右にある石段を登ると、天満宮の社殿がある。
かんたんな造りの社で鈴もしめ縄もない。向拝の屋根だけが神社の雰囲気を残している。
拝殿を覗くと、板張りで左右に棚が作られていて、石仏が4体づつ計8体祀られている。
中央に神殿があり、その前に鈴と賽銭箱があった。
神殿を望遠レンズで撮影すると、菅原大神と書かれた石の祠が安置されている。
これが御神体だ。
拝殿の入り口左には、諫江八十八ヶ所 第七十五番札所と書かれた杭が建っていた。
さて、ここを神社と呼んでもいいのだろうか。
中央に祠が祀られているが、仏様のほうが主の作りである。
神仏習合の見本のようで、本来は札所の小屋がメインだと思う。
それにしては、入り口の鳥居や参道は立派なので、やはり明治政府の神仏分離政策で、神社の体裁を大正時代整えたのだろうと思う。
諫江八十八ヶ所は諫早の殿様になれなかった息子の不遇を憐れみ、文政8年(1825年)四国八十八ヶ所に習って諫早領内に88体の弘法大師像を設置したものである。
札所のほうがかなり古い。
なぜこの場所に天満宮があるかは不明だが、近くに八坂神社もあるので、京都に馴染みのある公家か武士が、菅原大神を祀ったのかも知れない。
少しふもとへ降りてインターの方に行けば、市布天満宮や天満公園もあり、そこにも諫江八十八ヶ所がある。
諫江の札所は、武家の母が我が子のために設置したものなので、亡き子供の為に、学問の神様を合わせて祀ったのかも知れないと思う。
明治政府の神仏分離政策は、国のために行なったのだが、一般民衆は、かなり迷惑を被った人もいたのだろう。
日本の信仰は、1000年以上の長い間、神と仏を一緒に祈っていたのだ。
いきなり神仏を分けろと言われても戸惑ったのだろう。
そこで、ここの天満宮のように、立派な鳥居と参道、境内を付け足して、表向きは神社にした。
しかし社殿を見れば一目瞭然で、神社とは呼べない作りである。
まあ、これでもいいのだと思う。
神も仏も同じ尊いものだからである。