宿町 弁財天神社 珍しい宇賀弁才天
長崎市内から矢上方面に行く道で、日見のトンネルを超え、下りきった所に、スーパーのエレナ日見店があり、その前の道脇に有る。
石組みの上に一の祠があり、そこを登ると狭い境内の奥に、扉のない木の祠が有る。
その中に、二体の石仏がある。
左側の石仏はお坊さんだ。長崎でお坊さんの石仏と言えば弘法大師だと思う。
さて、中央の石仏だが、一般的な弁天様ではないようだ。
普通は琵琶を持ち女神らしい雰囲気があるのだが、此処の弁天様は、右手に宝棒(? 剣か)、左手には宝珠っぽい。
この姿が弁天様とすれば、宇賀弁才天だろう。
宇賀弁才天
元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されているが、両者には名前以外の共通性は乏しく、その出自は不明である。また、蛇神・龍神の化身とされることもあった。ウィキペディア
宇賀弁才天だとすれば、頭の上にとぐろを巻いた蛇と人物の顔が小さく乗っているはずだ。
此処の石像を見れば、頭頂部に何か乗っていて、今はなくなっているようにも見える。
長崎市内の稲佐の弁才天も宇賀弁才天だった。
何かつながりがあるのかもしれない。
神社の境内は上の道に抜けられるようになっている。
私が参拝した時にはつつじの花がきれいに咲いていて、さわやかな祠という印象がある。
検索で出てきた日見地域センター(日見の史蹟)というHPに由来らしきものが有ったので記載する。
由緒及び沿革
昔は「べんてんさん」と親しまれ、子供たちのよき遊び場であった。田仕事の合間には、木陰で休むことができて、のんびり昼寝ができるくらいの敷地があったが、日見バイパス工事に伴い敷地が狭まり、社殿は移動して小さくなった。鳥居も移転され、鳥居からの階段は改造されているものの、ほぼそのままの姿を保っている。
https://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/121000/121100/p027994.html
境内はきれいに掃除されていて気持ちがいい。
地名の宿町だが、かつて長崎街道の宿場町があったことから、この名が付いている。
日見峠の急坂を下ると、日見宿に着きます。ここは、長崎から2里そして次の矢上まで1里の所です。
往時、この宿場には人夫165人、馬20頭ほどが備えられていたと伝わります。峠を下った辺りでは、道が切り開かれ日見新道と呼ばれる広い道もありました。
時代は書いていないが、江戸時代の話だろう。日見峠東側の登り坂道は急勾配とあり、「西の箱根」と呼ばれていたとあるので、かなりの難所だったと思える。
いつの時代に、この弁財天神社が有ったのか不明だが、弁天様は海の神様なので、この地域の埋め立てが始まる前からあったのだろう。
日本人の信仰
長崎には、これくらいの神社と呼べない信仰の場は沢山存在する。
神社と言えば、古事記に登場する神様の事を思い浮かべるが、古事記に出てこない神様も沢山あり、民間信仰として根付いているものも多い。
弁天さまはインドの神様だが、江戸時代七福神が流行った時に、人気になった神様だ。それ以外にも恵比寿様もいる。
日本にたくさんある稲荷もそうである。
日本には仏教や神道があり、沢山の仏様や神様がいるのに、それ以外にも、いろんな神様を見い出しては、信仰している。
その節操の無さはどうしてだろう。
日本人は無宗教の人が多いというが、これだけあちこちに神社や祠が存在している事に矛盾を感じる。
とすれば、日本人の信仰とはなんだろうかと思う。
信仰に濃淡が有るとすれば、日本人の信仰は極めて薄味だ。多神教だからだろうか。
最近考えるのだが、日本という国に住んでいることが、日本人であるということが、大きな信仰になっているのかなと思う。
なので、個別の神社やお寺は、その中の一部分で、唯一無二の信仰ではない・・・。
だからこそ、個別の信仰は薄味になってしまう。妄想かもしれないが、なんとなくそう思えてくるのだ。
宿町の弁天様に手を合わせる人がいるからこそ、現在も存続している。
それは、「食事の時にいただきます」や「ごちそうさま」を言う感覚、仕事中の挨拶の「お疲れ様」、人になにかしてもらった時の「ありがとうございます」の感覚のような気がする。
神様に「ありがとうございます」というお礼を口にする事。
これかも知れないなーと思ったりもする。