桜町 出雲大社長崎分院 長崎県の国威発揚が目的

〒850-0031 長崎県長崎市桜町8-5 出雲大社長崎分院

出雲大社長崎分院

出雲大社長崎分院

出雲大社長崎分院

長崎市役所裏手の石垣の通りにある。ビルの間に鳥居が隠れ、一見して神社の場所がわからない。

大きな看板が出ているのだが、近くに寄らないと神社とは思わないだろう。

玉垣もあり、鳥居もある。

出雲大社長崎分院 鳥居

出雲大社 撮影アートワークス

ただ鳥居が、出雲鳥居ではなく、全て円柱で構成された黒木鳥居である。しかし黒木鳥居は素朴な木で組み立てられているものを言い、ここはコンクリート製なので、一般的な神明系の鳥居というのだろう。

なぜだろう。

出雲大社の鳥居は明神系で笠木もついている。

鳥居の種類は大きく分けて二つある。明神系と神明(しんめい)系である。神明鳥居は古いタイプの鳥居で、主に天孫系の神様を祀っている神社に使われ、それ以外は明神系である。

さて出雲大社だが、祭神は大国主大神。この神様の出身は高天原ではない。だから明神系の鳥居である。

しかしここは神明(しんめい)系の鳥居だ。なぜだろうかと疑問が残る。

出雲大社長崎分院

出雲大社長崎分院

出雲大社 撮影アートワークス

鳥居をくぐるとすぐ石段で、大きめのしめ縄も張られている。

賽銭箱があり、亀甲紋の中に大という字が書かれている。

現在の出雲大社の神紋は、六角形の枠の「亀甲紋」を二重にし、その中に「剣花菱(けんはなびし)」なのだが、大と言う字はどんな意味があるのだろうか。出雲大社の大ということかな。

ここに参拝作法が漫画で書いていて、二拝四拍手一拝とある。作法は本家の出雲大社と同じだ。

拝殿入り口

出雲大社長崎分院 拝殿

出雲大社長崎分院

すべてが狭いので、拝殿の扉の左手が受付となっている。

拝殿は網越しに見ると神殿の場所が見えない。正面左奥にあるようだ。

拝殿入り口の右手には、ワニに乗ったウサギの石像があった。「因幡の白兎」の話である。

現在はアリゲーターのワニではなく、ワニザメと言うサメにおとぎ話はなっているようだ。

ホームページ

ホームページも有り、2019年12月9日KTNテレビ長崎「ヨジマル!」で七福神・大黒様の取材がありました!と書かれている。

HOME - 出雲大社長崎分院

出雲大社の年間行事 2019年12月9日KTNテレビ長崎「ヨジマル!」で七福神・大黒様の取材がありました! 出 ... Read more

みなさんもどうぞ。

さて、分院だが、本社の出雲大社から分霊して、別の場所で祀られているのが分祠・分院と呼ばれる神社になる。これらは出雲大社教の布教機関になり、もっと規模が小さいと教会と呼ばれている。

出雲大社は島根県なので、遠隔地の人はお参りに行けないということで、全国に分院や教会はある。

例えが微妙だが、車の場合だったら、トヨタの直営店と販売店の違いくらいあるのかなと思う。

そう考えれば、鳥居にしても、神紋にしても、出雲大社の完全コピーを意図的に避けたかなと考える。

過去、出雲大社は出雲を広めるために、御師(おし)という営業マンが活躍したと言う。

江戸時代に出雲の御師おしたちが、庶民が御利益信仰を求めていたので、男女の縁を結ぶ御利益がありますと御札を売り歩きながら宣伝した。

天正19年(1591年)に毛利輝元の朝鮮出兵に備え、出雲大社の社領は大幅に削減された。そこで大社は財政再建のために全国に「御師」を派遣したらしい。彼らは中官級の神主で、5~6人で旅に出る。行き先はそれぞれ決まっており、そこで御札を配り、祈祷や講話などをして収入を得る。
信者を増やし、講社と呼ばれる団体を結成し、出雲大社への団体参拝を勧誘する。さらには参拝客を自宅に宿泊させる。民宿業を兼ねた神主というわけで、「此の收入は莫大なものなりし由」(「大社旧懐談」/『出雲信仰』石塚尊俊編 雄山閣出版 1986年)だったそうなのである。

出雲大社が「縁結びの聖地」になった意外な歴史
髙橋 秀実 ノンフィクション作家
https://president.jp/articles/-/31436?page=4

こんな経緯が今の出雲大社を作り上げたのだ。分院や教会は、現代の御師と呼べるかも。

澤宣嘉

創立は明治11年。初代長崎県(長崎府)知事 澤宣嘉(さわ のぶよし)氏が、長崎県の国威発揚のため勧請したとある。

初代長崎県知事 澤宣嘉氏は七卿落ちと呼ばれる7人の公家が京都から追放された人物の一人である。

澤宣嘉

王政復古の大号令の前夜、朝議にて赦免され、官位や諱が復されると、澤宣嘉は外務卿となり、明治政府の要職に就く。そして初代長崎県知事となったのである。

つまり公家さんなのだが、超過激派だった。

朝廷組織の改革に取り組むのだが、政変で洛外追放になり、長州へ落ち延び、生野の乱(いくののへん)を引き起こすと、宣嘉はこれに同調して、兵乱に加わった。

生野の乱 幕末の文久3年(1863年)10月に但馬国生野(現在の兵庫県朝来市生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件 ウィキペディア

しかし、幕府の鎮圧戦に敗れ、四国へと逃亡し、再び長州へと戻っているとある。

なかなかの武闘派で、維新後、罪を赦され、新政府の参与となり、九州鎮撫総督兼外国事務総督となり、初代長崎県知事となった経緯がある。なので長崎県の国威発揚のため、出雲大社長崎分院を勧請したとある。

この澤宣嘉氏は、栄町の長崎大神宮も作っている。

長崎大神宮

私は伊勢神宮も出雲大社にも参拝している。

分霊や分院も良いのだが、機会位あれば出かけてみてほしい。

日本の神道の姿が、伸びやかで、自然と深く繋がっていることを感じれる。

そのうえで、分社、末社、分院に参拝すると、だいぶ気持ちが違うはずである。

ご利益だけを求めて、ブランドの神社に参拝することは、そんなに素敵じゃない事がよく分かるはずである。

 

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