飯盛町 後田神社 諫早家家老寺田家が建立
江ノ浦川河口付近の南側の小高い丘の上にある。
飯盛町の郷土史を読めば、古代の古墳もたくさんあり、中央での大化の改新による律令体制の公地公民制によって条里制が実施されたが、この飯盛町にも条里制の痕跡が残っている。
西の果ての長崎の田舎地域と思われているが、意外とそうではないらしい。
諫早の最初の覇者西郷氏は、この海岸線上の有喜村から興った。その次の覇者は龍造寺家だが、その後佐賀藩の家臣となり、その地位は次第に変化していく。
佐賀の鍋島氏から見れば、諫早氏の家臣は、家来の家来で又者(またもの)と呼ばれていたとある。
忍従の歴史があるようだ。
江ノ浦だが、今のように埋め立てが進んでいない時は、大きく海が入り込んでいて、月の港(三日月のような形)があった。
この地域の米の生産を高めるには、この月の港の干拓が必須であり、その苦労話は郷土の歴史に刻まれている。
武士にとっても、農民にとっても、田んぼを増やす事は、最重要課題である。
飯盛付近は、これらの事業が比較的うまくいった方だろう。
後田神社
砂利道の舗装道路脇に一の鳥居がある。境内に続く道は塀と金網で覆われていて、参道もまた舗装されている。
二の鳥居から先は境内となり、結構広いのだが、真ん中に覆いがかけられている。土俵だろうか。
社殿は一段高い場所にあり、瓦屋根で向拝の部分もしっかりしている。
左右に五輪塔や慰霊の石碑が沢山ある。
拝殿入り口の梁には彫り物があり、拝殿の中は板張りで整頓されていると思う。
神殿前には、大きく「上り藤」を染め抜いた紫の幕がかけられていて、なかなか格式がある。
そう言えば石灯籠にも、いろんな細工がしていて、この神社の作りは素晴らしい。
神社右横には、諫江八十八ヶ所霊場第番57札所がある。右側に一箇所、奥に一箇所で結構大きなコンクリートの祠だ。
右側の祠には、大きな赤い前掛けをした弘法大師の像が鎮座している。
奥の祠には、様々の仏様たちが並んでいる。
神殿も立派な作りで、神仏共に地域に愛されている神社だと思える。
飯盛町の郷土史によれば、寺田八郎右衛門政常によって、1783年に建立されたとある。
寺田家は諫早家家老の家柄で、寺田家の配分地にこの神社を建てた。
碑文には「往古は多良嶽大明神と尊称し五穀豊饒祈願のため鎮祭せられた」と書かれているが、天明の大飢饉に際して、神仏に祈る気持ちが起きたのだと思う。
この神社は寺田家が建てたので、寺田神社、大家神社とも呼ばれていたが、明治になり後田神社と改名された。
多良嶽大明神、八十八ヶ所霊場、殉国慰霊碑、馬頭観音、庚申大明神、弘法大師、山王さん。
何でもありの神社となっている。
しかし、村の氏神は心が広く設定されている。
これくらいあったほうが、ありがたみもあり良いのではないかと思う。