大村 市杵嶋神社 元は弁天様

長崎県大村市久原1丁目140 市杵嶋神社

市杵嶋神社

市杵嶋神社 一の鳥居

市杵嶋神社 太鼓橋

市杵嶋神社 二の鳥居

国道34号線で大村に行く道で、鈴田川を超え久原港の先を海沿いに走り寺島を目指す。

その寺島に市杵嶋神社がある。あるというより、島全体が市杵嶋神社と言って良い。

海沿いを走る舗装された自動車道路の大きなカーブ部分に一の鳥居が建っている。

市杵嶋神社への道は、二車線の道路を横断して島への道を進み、太鼓橋と書かれた半円形の小さな橋を渡る。

市杵嶋神社

市杵嶋神社

市杵嶋神社 参道

市杵嶋神社 三の鳥居

市杵嶋神社 四の鳥居

その先に二の鳥居がある。その先の道は細く、島へ一直線に伸びている。

そのコンクリートの道は30メートルほどあり、その先は島の中央の神社に登る石段と、左右に島を回り込む道とに分かれている。

その石段の左手には、木の立て札があり、大村湾県立公園 寺島と書かれている。

その石段を登りきった所に三の鳥居がある。

島の頂上は平たく整地されていて、その中の細い道を行くと、木で出来た四の鳥居になる。

この鳥居はすべて丸太で作られている古い形式の鳥居だ。

市杵嶋神社

市杵嶋神社 案内板

その先は茶色い石のタイルが敷かれていて、石段のある石の祠二基に繋がっている。

左手には藤棚の日除けが横に広がっており、そこに少しサビの浮いた白いトタンの案内板がたっている。

寺島史跡案内と描かれ、夫婦石、妙音寺跡、市杵島神社と龍神社、殉国碑とかかれている。

という事は、この祠2基は市杵島神社と龍神社だという事になる。

案内文には

寛文元年(1661年)、妙音寺建立に際し、弁財天と大黒天をあわせて祀ったが、明治三年神仏分離令のため、市杵島神社に変更した。

龍神社は、玖島崎龍神島へ明治八年遷座したもの。

とある。

この島が寺島という名前なのは、妙音寺が有ったからだという。

日本中に妙音寺という名の寺は多いが、殆どが曹洞宗か日蓮宗の寺院だった。

弁財天は海の神様とされているのでわかるのだが、大黒天を祀るというのは特徴がある。

日蓮宗の寺院では、大黒天と鬼子母神が守護神として祀られている。

なので、この妙音寺は日蓮宗系の神社だったのかもしれないと思う。

とすれば隣の祠の龍神社も、日蓮宗系ではよく八大龍王が祀られているので納得がいく。

市杵嶋神社

市杵嶋神社

龍神社

龍神社

市杵島姫の祠の中にはガラス付きの箱が収められていて、そこには彩色された浮き彫りの人形みたいなのが複数貼り付けられていて、一枚の絵というか作品のようだ。

ガラス越しなのと小さいので内容は不明である。

隣の祠は鉄製の扉風で鍵が付けられている。この祠の龍神は、この島の近くの龍神島へ移されたとある。

龍神島の祠も鍵がかかっていたので、ここと同じだ。

二つの祠の左手奥には「寺島」についての説明がある。

簡略して書くと、大村氏の始祖は、平安時代に反乱を起こした藤原純友の孫だと書かれている。

しかし、この説明には異論もあり、藤原直澄は、藤原氏の家系図で確認が出来ておらず、大村(藤原)直純が寺島に上陸したという事も疑わしいという。

このあたりの真偽は郷土史家の先生たちの調査で、いつか判明するだろう。

寺島の説明板

寺島の説明板

ロケ地の宣伝

この寺島はNHKの龍馬伝の時、ロケ地として使われた事が有名である。

確かに、小さな島で周りはきれいな大村湾なので、ロケーションは抜群である。

神仏分離

元は弁天様で、明治になって市杵島姫を祭神にした例は、長崎にもいくつかある。

弁天様はもともとインドの神様で、七福神にも入っているので神様のままでいいと思うのだが、国産の神様でないので、共に女性で、海の神様という事で市杵島姫に変えたという事である。

神仏分離という明治政府の方針は、色んな所に大きな影響を与えている。

これは快挙だという人と暴挙だという人の両方がいる。

しかし、この大変革で、暴動も起こっていないし、大きな騒動も起きていない。その事のほうが不思議だと思う。

神様が途中で変わっても、信仰が継続されている。

日本人の信仰のあり方がここにあるのだろう。

その事を強く感じている。

市杵嶋神社

 

 

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