永昌町 御館山稲荷神社 為朝伝説と豪華な朱塗りの社
御館山だが、私は「みたてやま」と読んで、よく「みたちやま」と訂正されたことがある。
場所は、諫早駅から中尾町への広い道を真っ直ぐ行くと、左手に車で神社まで行ける入口がある。
この道を登っていけば神社につくのだが、この道に鳥居がないことに気がついた。
という事はこの道は車用に作られた道で、一の鳥居を地図で探すと、かなり諫早駅寄りの所に大きい赤い鳥居が有ることを確認する。最近その事に気が付いたという間抜けな話である。
御館山は標高99m。この山の頂上に建てられた神社だが、色んな話が多い神社である。
車道側の登り道右側に、祠が二つ、石碑などがある。
本殿へ行く前に、右手の岩場に上る細い山道があり、そこにある赤い鳥居をくぐって進めば、岩の上に仏像などが置かれていて、この大岩が信仰されていたらしい。
この大岩の一部には、『鎮西八郎為朝ゆかりの矢受け石』というのがあり、さらに岩窟の中の稲荷などもある。
下の境内に戻り、手水舎のあたりに、大きな看板があり、『鎮西八郎為朝ゆかりの矢受け石』『四面上宮と船魂明神』『開運の神として知られる豊前坊』『奥殿』『狐の巣穴』など参拝場所の説明絵図がある。
この神社のサービス精神を強く感じる。
拝殿は朱塗りの立派な社である。ただ、どことなく佐賀の祐徳稲荷神社の雰囲気がする。
拝殿の前は広く、私が行った時には、境内の崖側に鯉のぼりが吊るし並べられていた。
崖の上に境内は作られていて、境内端の手すりからは諫早の風景がよく見えて、絶景ポイントだ。
拝殿の造りはがっしりしていて、拝殿の中も見たが、立派な作りだった。
撮影禁止
よく見ると、そこには撮影禁止の張り紙があった。拝殿が撮影禁止というのは初めてである。
なので掲載はしないが、その理由がわからない。神社の造りがお金をかけて立派だと、庶民には見せたくなくなるのかなと、嫌味を言いたくなる。
神社の格式を上げる印象操作で、禁止事項をおおく作る所が有る。
私が撮影禁止に納得したのは、伊勢神宮の天照大神の拝殿と、高野山の空海上人の神霊廟だけである。
そこは、庶民としてわきまえたいと思った。
基本、神社はオープンで仏寺は禁止事項が結構有る。成り立ちと宗教観の違いだろう。
拝殿の左側に、正一位むの神額を掲げた朱色の鳥居があり、ここを上ると最初に登った岩山の反対側に行ける。
真っすぐ上がる。その先は3つに分かれていて、左側の山道の登り口には岩の上に置かれた四角いコンクリートの箱の中に子供を抱いた観音様が祀られていた。
もどり、正面の岩には洞穴があり、案内には奥殿と書かれている。中に入ると左右の岩の角に小さな稲荷が祀られている。
その右には石の祠があり、豊前坊と看板があった。1756年に祀ったと書かれている。豊前坊とは天狗のことである。
祀られているものに、関連性はないと思う。
山中には霊塚が多数散在し、稲荷信仰の霊地として「幸恵美山―こうえみさん」と民衆の崇拝で賑わってきた。御館山神社のホームページより
由緒
御館山は、一千三百余年昔の大宝年間(西暦七〇一~七〇三年)に、行基菩薩が九州巡行の折、五智光山として開基された。
行基が開いたと言っている神社は沢山有る。だが、その信憑性はかなり薄い。
祭神は宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)。それと猿田彦神(さるたひこのかみ)、大宮売神(おおみやめのかみ)とある。
大宮売神は主祭神の宇迦之御霊神の配神とされている女神である。しかし猿田彦神が共に祭神というのは、諫早の地域的な事情かもしれない。
鎮西八郎為朝
平安末期、鎮西八郎為朝が館を築き武術を練ったことから、御館山と呼ばれるようになったと伝えられている。御館山神社のホームページより
ここが大いに興味が惹かれる箇所である。
正確には源為朝という。
平安時代末期の武将。源為義の八男。源頼朝、義経兄弟の叔父にあたる。
『保元物語』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛弓の使い手で、剛勇無双を謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義に持てあまされ、九州に追放されたが手下を集めて暴れまわり、一帯を制覇して鎮西八郎を名乗る。
保元の乱では父とともに崇徳上皇方に参加し、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、伊豆大島へ流される。しかしそこでも国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、追討を受け自害した。ウィキペディア
為朝は九州を制覇したと言われているので、鎮西八郎為朝と呼ばれている。
その伝説は多く、まとめてあるウィキペディアの抜粋の文を記載する。
「屋形石」の地名は鎮西八郎源為朝が黒髪山の悪蛇を退治する際に蟇目の法を行ったところ、余りの強弓から矢が石に突き刺さったことから、その石にちなんでこの地を矢形石村とした、とある(松浦拾風土記)。
為朝が幼少のころを過ごしたとされる大分市内には「為朝神社」があり、為朝が霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さった石が、ご神体として祀られていた。
佐賀県上峰町の鎮西山には、五万ケ池(ごまがいけ)があり、その池の名前の由来は、為朝を攻めた敵の五万騎が為朝の弓の力でこの場所で討たれたことから、池の名前がついたと言われている。
佐賀県上峰町の鎮西山には鎮西八郎為朝の慢心を戒める逸話が残っている。
福岡県朝倉地域には、源為朝の墓と伝承される石塔と為朝の愛馬の墓と伝承される石塔(馬塚)に加え、全国的にも珍しい源為朝の母の墓と伝承される石塔が存在している。
佐賀県の黒髪山に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。
源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている。この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。
まあ豪快で、スーパーマン的な伝説が多い。
九州には伝説が溢れていて、長崎の諫早にも有るということだ。諫早は佐賀藩の領地なので、武家の間で語り継がれたと思う。
長崎の矢上という場所に、八郎川という大きな川が有るが、これもまた為朝伝説だと思う。
しかし長崎市内にはない。
長崎はポルトガル貿易船が入ってきた元亀2年(1571年)から開けてきたとされ、その後はキリシタンの街となり、それまでの長崎の文化は、キリシタンによってすべて破壊されたと言ってもいい。
なので、為朝伝説は残っていないのだろう。
諫早の神社は立派な神社が多いけど、この御館山稲荷神社と比べると地味である。
いや、この神社が飛び抜けて派手だという事だ。
稲荷神社は民間の神道の中では派手である。例えば佐賀の祐徳稲荷や、大分の宇佐神社などを参拝すれば、高野山並みの豪華さを競っている。
だが見た目の派手さは庶民の信仰を勝ち取り、至る所に複数の赤い鳥居が立ち並び、怪しい魅力を持つ狐像がその中で鎮座している。
これもまた神道の側面だろう。