大村 松原八幡神社 社叢は天然記念物
大村空港がある海岸沿いの北口より更に北にあった。
この神社がある松原地区(旧・松原村)は、古代肥前国時代から、江戸時代に発達した長崎街道の街道沿いにあり栄えていたという。
神社はこんもりと盛り上がった丘の上にある。周りの近代化でここだけ残したのだろう。社務所は道路沿いにある。おそらく社務所の付近までは境内だったのだろう。
入り口には松原八幡神社と書かれた石柱と、大村市指定天然記念物、八幡神社の社叢と書かれた案内柱があった。八幡神社の社叢の名称で境内林の樹木を一括指定していて、特に巨大なクスノキは重要な記念物なのだ。
一の鳥居の扁額には八幡宮と書かれている。それから社殿に続く階段があるのだが、階段の左右に祠が建てられている。
その中には仏様ではなく、鏡が祀られているので神様を祀っているのは確かなのだが、その二柱の神様の名はわからない。
石段を登りきると、二の鳥居があり、その先には広い境内があった。境内にはこの地域に貢献した人の銅像や記念碑がある。
社殿は大きく立派な作りだ。屋根は銅拭きでどっしりとしていて、拝殿の面構えもいい。
社殿の左手には立派な屋根付きの相撲場がある。土俵は少し低い場所にあり、その周りを囲むように観戦用の石段が作られている。
土俵に観覧席がある神社は初めて見た。
狛犬の片方には角があり、怖そうな狛犬だ。社殿は正方形で外見の壁面は相似形の作りのようで、そのシンメトリーが厳かさを加えている。
拝殿は木で作られた背もたれのない折りたたみ椅子が並べられ整然とした雰囲気で、ここでお祓いなどが常時行われていることがわかる。
回り込み神殿を見ると、社殿と同じように立派な作りで、千木の先端は垂直に切られている。男性の神を祀っているということだ。
もっと回り込み真後ろに行くと、コンクリートで作られた祠があり、中には菅原道真公の像が祀られていた。何か訳があって此処に鎮座しているようだ。
境内を再度見渡せば、大村市指定天然記念物、八幡神社の社叢という意味がよく分かる。境内の大木はバランス良く生えているように見える。
このバランスが厳かな社殿と相まって、いい雰囲気を醸し出しているのだ。
祭神は八幡神社なので品陀和気命(ホムダワケノミコト応神天皇)である。
説明板による沿革
松原八幡神社
松原村の総鎮守で、『博多日記』の正慶二年(一二三三)に登場することから、鎌倉時代の末は既にあったと考えられます。一説には鎌倉時代に、伊東家が下向した際に、鎌倉の石清水八幡宮の分霊を祀ったのが始まりといわれています。
天正二年(一五七四)にキリシタンにより破壊されますが、江戸時代に再興されました。
中岳の合戦に敗れた領主大村純伊が、八月十五日に領地回復の祈願をした伝承から、毎年、八月十五日に例祭を行っていましたが、明治以降は、十一月十五日に行われてきました。この例祭は「松原くんち」として有名で、今でも十一月の中旬に行われています。
令和ニ年三月三十一日 松原宿活性化協議会
大村氏
不確定な部分が多いが、藤原純友の孫藤原直澄が正暦5年(994年)に伊予国大州より肥前国彼杵郡大村に入部して大村氏を称したことに始まると伝えられている。
忠澄の代に源頼朝に仕え、鎌倉時代に藤津、彼杵2郡の地頭職について在地掌握を強めた。
大村家信が1289年(正応2年)に元寇の戦いに参加、恩賞として肥前神崎荘の田地3町と屋敷を与えられている。
南北朝時代には南朝方に属して在地領主間で争った。
1480年には旧領を回復し、大村純忠の代に彼杵郡を支配した。
長崎およびその付近の茂木の領地をイエズス会へ寄進し、ローマ教皇に少年使節を派遣した。
純忠の子大村喜前は豊臣秀吉の九州征伐に従軍し、それによって1587年(天正15年)に秀吉より2万7900石余の本領安堵の朱印を与えられた。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで東軍に付いて徳川家康より所領安堵され、彼杵郡2万7972石の大村藩主家として明治の廃藩置県まで続いた。
明治元年(1868年)の戊辰戦争ではいち早く官軍に参加して大きな戦功をあげ、純熈は小諸侯としては破格の賞典禄3万石を下賜された。
大村藩の歴史を簡単に並べたが、時代の流れの中で奮闘し、家来や領主ともども大村藩を支え続けていることがわかる。
藤原直澄が大村にやってくる前の時代のことは、ほとんど記録がない。
しかし大村は、古代は彼杵の郡の中にあり、ヒサゴ塚という前方後円墳もあり、この地に豪族がいた証である。平安時代は彼杵の荘という荘園だった。
佐賀や島原の大藩に囲まれているが、それなりに奮闘している感じがする。
松原八幡神社をみると、そんな土地柄がわかるようだ。