西彼町亀浦郷 亀浦大神宮 近くに小干浦キリシタン殉教碑

西海市西彼町亀浦郷1382 亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮

バイオパークの東側海岸の港町である。神社は海から小山に向かって登る道路沿いにある。道路から石段が少しあり、一の鳥居が建てられている。

鳥居の横には石碑があり、20メートルほど上がると、車が駐車できる広い場所に出て、そこから少しの階段を上がると二の鳥居がある。

境内は広いが、特別なものはなく、社殿はやや大きい瓦葺きの木造だ。拝殿は広く、神殿部分の入り口には花菱の紋が染められた幕が張られている。

花菱の神紋は伊勢神宮で使われているので、亀浦大神宮でも使っているのだろう。

境内脇の石垣の上に古い祠が二基と、大神宮の割れた神額が置かれていた。

二の鳥居の脇にも、大きな鬼瓦の顔の部分が置かれている。おそらく昔の社殿で使われていたものだと思う。

亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮 拝殿

此処は港町でそれほどにぎやかではない。

しかしなぜ港町に皇祖神を祀る神社を建てたのか不思議に思う。

『郷村記』・「亀浦村」に、 「亀ノ浦鎮守照大神 神体木立像 極彩色俗女体氏子中祭之例祭九月十一日 妙経寺勧請石祠 神殿 一間方 瓦宇 拝殿 二間ニ三間 瓦宇1石鳥居 一基 境内一畝十五歩程、外山、石段五十八段当社ハ承応年中所之百姓与四兵衛と云者建立、村中より祭之其比ハ高四尺横一尺程之石祠也」とある。 小干、風早を含めて氏子一七〇戸。 小干恵比須神社は付属社である。祭礼、一月一日歳旦祭、二月一日豊作祈念祭、六月三十日大 祓夏越祭、九月十一日宮日、十一月二十三日新穀感謝祭、十二 月二十五日願成就。
九月十一日は時津祐徳稲荷神社の宮司を迎え、小干・風早の 氏子が参席して宮日を祝う。

文中に承応(じょうおう)という年号があった。承応は江戸時代の1652年から1655年までを言う。

つまり、江戸時代の初期に建てられた。建てたのは百姓与四兵衛さんのようだ。

お百姓さんが大神宮を建てたというのは、なんだかしっくりこない。

第4代藩主・大村純長の治世時代だが、明暦3年(1657年)、城下北部の郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるに至った。「郡崩れ」と呼ばれるこの事件は、キリスト教禁教令より45年を経過した後のことであり、藩の存亡を揺るがす重大事件となった。しかし、藩主の実父伊丹勝長を通じ、幕府に対し即座に事件の実情報告を行い恭順したため、咎を受けなかった。これ以後、キリシタンへの徹底した予防と探索を行い、領民に対し仏教・神道への信仰を強化した。

こんな時代である。

そして此処亀浦郷には、小干浦キリシタン殉教碑が現在建てられている。

江戸時代初頭の1624年(寛永元)。 キリシタンの市五郎左衛門トマスとその子与介ドミンゴが、棄教を拒んだため西彼杵半島の小干浦で斬首された。信仰に命をささげた親子の遺骨は、約340年後に発掘されることとなる。

なるほどと思う。

この地はキリシタンの地だったのだ。なので大村藩は領民に対し仏教・神道への信仰を強化した。

その結果、百姓与四兵衛さんが大神宮を建てたという事になったのだろう。

静かな港町に、キリシタンは浸透していたのだ。

大神宮はキリシタンではない証として利用されたのだと感じる。

此処にもドラマが有ったのである。

亀浦大神宮

亀浦大神宮

亀浦大神宮 神殿

亀浦大神宮

亀浦大神宮

 

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