吾妻 釼柄(けんぺい)神社 砦のように石垣で囲われている
この神社は本村名地域の北西、住宅地の西の外れに鎮座しています。社地の周囲は石垣で区切られ、右手に歯大樹が聳えています。境内中央には「団子願」の祭事に使用される大きな土俵が設えられ、その奥に灯籠、入母屋造りの拝殿、弊殿と本殿鞘堂が建立されています。「長崎県神社庁公式サイト」
御祭神は武甕槌大神外4柱。
古そうな神社である。祭神はタケミカズチ。
武甕槌は雷神、かつ剣の神とされる。建御名方神と並んで相撲の元祖ともされる神である。
釼抦(けんぺい)神社は小浜神社内にもあった。こちらも釼抦(けんぺい)と読ましている。
同じ字を書く、剣柄(けんのつか)古墳・剣柄稲荷神社(宮崎県国富町)もある。
ここの言い伝えは景行天皇の妃のミハカシ姫の墓と伝わる。また、神武の兄のイナヒの墓とも伝わる。また、ヤマトタケルが熊襲タケルを刺した短刀を埋めた塚とも伝わる。
これなの神社は、いずれにしても、剣(武器)がらみだろう。
手水鉢盃状穴
あと、ここには盃状穴の手水岩がある。説明の杭には手水鉢盃状穴とかかれ、雲仙市指定民俗文化財になっている。
確かに左右に置かれ、盃状の穴が掘られている。左の岩は長方形で大き目の穴が3つ、小さい穴が何個かあり、右手の岩は、方形で真ん中に大きな四角の穴、周りにたくさんの小さな穴があった。
盃状穴 世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして信仰されてきた。女性シンボルと関係があるとされ、現在でも病気の治癒や子宝に恵まれる事を願って信仰されている。(略)北欧では、病気の子供を穴にバターを入れた石の上に乗せて回復を祈る習慣があるという。ウィキペディア
ふーん。
日本の盃状石は縄文時代から作られている。元々は磐座に彫られ、子孫繁栄や死者の蘇生を願ったものとされている。古墳時代には古墳の棺に彫られた。(略)鎌倉時代には村の入り口に魔よけの目的で作ったり、神社の灯篭や手水石等に彫る事が多くなった。
なぜ、この盃状穴が再生や不滅のシンボルなのかが理解できない。
国文直一氏は、ヨーロッパ(「カップマーク」と呼ばれている)から東アジア(韓国では黄龍渾教授によって「性穴」と命名されたという)にかけて広く見られている盃状穴とのかかわりから、女性の性器を意味し、多産や再生、不滅への願いが表現されているとの説を唱えている。
しかし、神田山古墳群の石棺の蓋石に見られた「盃状穴」と江戸期に多く見られる「盃状穴」との間には、千数百年間の空白があるようで、つながりや関連は全くないのではないかと考える。結局は「盃状穴」がどうしてできたのか、本来の盃状穴の習俗については、今となってはよくわかっていないのが現状である。石造物にみられる謎の「盃状穴」 http://koshigayahistory.org/67.pdf
盃状穴が性穴(韓国教授が命名)という発想がよくわからないが、拝殿の前に形の違う岩があるという事は、対で役目があるのだろう。
吾妻町史
吾妻町史には釼柄神社考という一説がある。
ここには、剣は蔓(つる)+木と解釈し、蛇聖木であるという事が書いてある。蛇聖木という言葉はないが、ヘビ信仰があるとの事である。
さらに手水鉢盃状穴は、陰と陽で、左が男性シンボル、右が女性シンボルと書かれている。
結局この神社は蛇神にまつわる性、豊穣神と思われると書かれている。
ほんとかいな。
この文の作者は、盃状穴を韓国教授が命名した性穴と呼んでいるし、愛野の十拳剣神社は朝鮮半島の新羅の事だとか、磐井の乱の磐井はワイ族からているなどと、語呂合わせや朝鮮半島が好きな人のようだ。
前方後円墳との関係
この地域が古墳がたくさん出ていて、これらの古墳が豪族のシンボルなら、この地域は争いの多かった地域だったのだろう。
また、近くに森山大塚古墳という前方後円墳がある。
解説 現在共同墓地として使われていて、手が入りすぎて古墳時代後期と推定されているが、詳しいことは不明。
一般的に前方後円墳は大和政権側にまわった豪族の証の建造物とされている。
吾妻の釼柄(けんぺい)神社で感じたのは、その石垣の壁である。特に正面はがっちり組まれていて、まるで砦のようだ。
神社なので石垣はいらないと思うが、もし此処が砦だったり、武器庫だったりしたら石垣は必要になる。
盃状穴の手水岩の、まじない事が行われていた痕跡もあり、古代の豪族に関係している神社ではないかと推測した。