西海町 横瀬神社 古代史土蜘蛛とポルトガル南蛮貿易

長崎県西海市西海町横瀬郷3885  横瀬神社

西彼杵半島の佐世保よりの場所で、長崎から1時間半くらいで行ける。

西海橋方面に近づいても国道202号線を進み続け、面高方面を走る。つまり反対側の大島に行く道だ。始めていく道だったが、横瀬の標識がすぐ見えて迷う事はなかった。

横瀬神社

横瀬神社

横瀬神社

横瀬神社 入口に置かれている大砲の玉

横瀬神社 狛犬

横瀬神社 土俵

神社は高台にあり、鳥居を3つくぐると、広い境内に出る。

入り口には大砲の弾が置かれ、由来が書いていて日露戦争時代のものだとしている。

狛犬が左右にいるが、その顔がマンガチックで面白い。さらに境内右手には大きい土俵があり、ブルーシートで覆われている。

本殿はきれいに改築されていて、しっかりとした作りである。

かつて三社大権現の本地仏として、十一面観音、正観音、千手観音の三仏を祀ったとあるが、現在は天孫系の神様に変わっている。

本殿左に道があり、新しく社が建てられていて、三社宮という標識がある。中には仏像が祀られていて、昔の三社大権現を復活させたようだ。

横瀬神社

横瀬神社 拝殿

横瀬神社

横瀬神社 三社宮

横瀬神社 三社宮

横瀬神社 三社宮

横瀬神社 三社宮

横瀬神社 三社宮 神殿

記録では1662年現在地の丸山に遷座とあるが、以前の神山時代に関しては創建年代は不詳となっている。

古代の肥前風土記に地名があり、神功皇后が遭難した時、この地域の土蜘蛛が助けたという話もあり、古代より、土蜘蛛で栄えていたのかもしれない。

しかし横瀬に関しての記録はこれ以降なく、ポルトガルとの南蛮貿易港で再び脚光を浴びるまで、不明だとされている。

もしかすると、神山で祀られていた神は、土蜘蛛の神だったかもと、想像した。

詳しい解説がネットにあったので掲載する。

祭神 天照大神、天児屋根命、品陀和気命
由緒
かつて三社大権現と称したが、創建年代は不詳。『大村郷村記』の社伝によれば、以前は神山に鎮座したが、祭礼の際喧嘩口論が起こり遂には刃傷沙汰に及んだため、その社地を不浄の地として、寛文2年(1662)二月に現在地の丸山に遷座したという。当神社が鎮座する横瀬浦は西彼杵半島のほぼ先端に面し、軍港として栄えてきた佐世保の出口付近に位置する。

 かつてこの地は、ポルトガルとの南蛮貿易港として繁栄した港であった。当地肥前国大村領を治めた大村純忠の支配地であったが、永禄5年(1562)に南蛮貿易港として開かれた。以来、上町・下町の町が出来、豊後商人、大阪商人等の往来で賑わい、一躍、日本の歴史上に登場することとなった。
 大村純忠は、その翌六年には、自らキリスト教に改宗し、ドン・バルトロメウと称した。港を見下す丘には教会、住院、またその尾根づたいには、大村純忠の館、大村館も造られた。
 後に横瀬神社が建立されることとなる小高い丘一帯を丸山と称し、この地には遊里が設けられるほどの盛況ぶりであったという。
 しかし、開港より1年後には、佐賀武雄の戦国大名後藤貴明の攻撃をうけ、南蛮貿易港としては短期間の生命であった。しかし大村領でのキリスト教、また南蛮貿易を考える際、その出発点となる地である。
 当神社は横瀬村の鎮守で、現存する棟札によると、貞享3年(1686)、享保元年(1716)、元文3年(1738)、明和6年(1769)と少なくとも、四度社殿が再建されたことがわかる。
 かつて三社大権現の本地仏として、十一面観音、正観音、千手観音の三仏を祀ったが、いつの時代かに紛失した。そのうち2体は旧社地の神山から掘り出され、残り1体も天保13年(1842)に現社地の丸山から出土したため、元通りに奉安したという(『大村藩郷村記』)。現社地丸山の地名は、南蛮貿易港が福田を経て長崎に移った際、この丸山の名も長崎に移り、遊廓街として賑わった。
 明治3年11月に三社大神と改称し、同7年に郷社に列格し、社名も横瀬神社と改めた。
西海 横瀬神社 - 春日連合会 神社名簿 http://kasugarengou.jp/list/2016/03/post-382.html

横瀬浦史跡公園

横瀬浦史跡公園

長崎の地名に関しての記述があり、初めて知った。

長崎の丸山の地名に関しては、特に歴史的な記述もなく、確かに山でもないのに丸山と言う。横瀬の丸山が、そのまま使われた可能性は高いだろう。

しかし、キリシタンの地になって繁栄すると、遊郭がすぐ出来るというのも面白い。

カトリックは性に関しては厳しいはずなのに、やはり日本人は貿易で栄え儲かるほうが、第一だったんだと再確認した。

帰りに横瀬港を見たくて歴史公園に行った。

横瀬浦史跡公園

横瀬浦史跡公園

ルイス・フロイスの『日本史』や、西海町が編纂した『西海郷土誌』には中世末に焼き討ちにあったとの記述があり、一夜にして灰燼に帰したとされている。

大村純忠の野望を一夜に打ち砕く、恩讐の力は凄まじいのだろう。

小さなきれいな港を撮影して、この地を去った。

横瀬浦史跡公園

 

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