大島神社 西海の家船は土蜘蛛か

長崎県西海市大島町8932

大瀬戸へ行く道を海沿いに走り、大瀬戸を過ぎて更に走ると、大島大橋にたどり着く。

大橋を渡り、寺島大橋を渡ると、やっと大島につく。神社は北の方向にあるので、それから山道を走り、港へ降りる細い道を進むと大島神社につく。

大島神社

大島神社

大島神社

大島神社

大島神社

新しい鳥居と、新しい参道の石灯籠が左右に4基づつ並んでいる。

その先の急な石段を上がると本殿。本殿もまた新しく改築されている。

それほど広くない境内で、ここから港が少し見える。

由緒

室町時代の元亀三年(1572年)に建立された本町で最も古い神社で、大島郷の鎮守の社とある。

祭神は玉祖命(たまのおやのみこと)

あんまり馴染みのない神様だが、天照大神が岩戸隠れの際に八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)を作った。天孫降臨の際邇邇芸命(ににぎ)に附き従って天降るよう命じられ、天児屋命(あめのこやね)、布刀玉命(ふとだま)、天宇受売命(あめのうずめ)、伊斯許理度売命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人として随伴した。

ウィキペディア

 

玉造部(たまつくりべ)の祖神ともある。

なぜこの神社に玉祖命が祀られているかといえば、おそらく真珠がたくさん取れるようにという願いかもしれないと思う。

祭神は、この玉祖命いがいに金坐像の千手観音も合祀されている。

この金坐像の千手観音は約500年前に造られたと言われ貴重な文化財だ。

更に承応三年(1654年)12月、第4代大村藩主大村純長は馬頭観音をまつり当時の藩牧場の安全を祈願致した。

この離れた島に、大村藩主が馬頭観音を祀った理由だが、大島には家船衆が集まって暮らしていたからだ。

一六世紀の初め、大村領主・大村純伊(すみこれ)は有馬氏との中岳合戦に敗れ、玄界灘多賀両宮へ参拝した時も家船衆の船を用いた。

孤島・加々良島(加唐島)に敗走する際、外海の家船衆が純伊の逃走を助け、純伊の本領回復を祈願し、伊勢・多賀両宮へ参拝した時も家船衆の船を用いたといいこの功績で、以後、領海内は勝手次第に漁ができたとされる。

家船

家船

「家船」(えぶね)とは、文字どおり、船で暮らす人々で、瀬戸内海域に集中的にいて、九州北西部もその存在が目立ち、歴史的には大村藩領外海地区の瀬戸を中心に嘉喜浦および崎戸に存在した。

この家船衆はいつから大瀬戸にいたのかは不明だが、肥前風土記に、土蜘蛛が操る船に、神功皇后の部下が助けられたり、景行天皇に玉を貢いだりしているという記述が肥前風土記にある。

土蜘蛛が家船衆とは、どの歴史書にも書いていないが、おそらく間違いないだろう。

佐世保の北部には、松浦党がいて最終的に平戸藩として支配している。

土蜘蛛、家船、松浦水軍とキーワードが並ぶと、古代の反大和の人々の匂いがプンプンする。

ムービーも作ったが、これが、どれだけ伝わったのか不安だ。

大島神社

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