佐賀 與止日女神社 謎の女神
與止日女神社の解説はネットにも溢れていて、今回はこれらの内容をとりあえず明記する。
いろんな文を読むと、その始まりはかなり古い。564年に鎮座したという年代が最古か。
また、名前も多くあり、「與止姫神」「豊姫」「淀姫」「世田姫」などだ。
由来も色々あるが、メインは豊玉姫だという説。神功皇后の妹という内容も多く、そうすると時代に矛盾が生じてしまう。
神代の豊玉姫と、史実かもしれない神功皇后だと整合性が全く取れない。
ただ、神功皇后が天照大神だとかいう説を読めば、時代の矛盾など、大したことではないのだろう。
與止日女神社(よどひめじんじゃ、与止日女神社)は、佐賀県佐賀市にある神社。式内社、肥前国一宮で、旧社格は県社。
「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれている。創建
『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)によれば、欽明天皇25年(564年?)11月1日に與止姫の神が鎮座したという。 世田姫神社の北に川上があり鮎や謂魚が逆流して潜ったりしていたとあり、同書に収録された川にまつわる説話から、水神信仰として成立したものと見られている。概史
延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では肥前国佐嘉郡に「與止日女神社」と記載され、式内社に列した。弘長元年(1260年)に最高位の正一位の神階を授けられた。(略)祭神
與止日女命 (よどひめのみこと)
神功皇后の妹という。また一説に、豊玉姫であるとも伝える。
『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)には、「與止姫神」のまたの名を「豊姫」「淀姫」というとある。また、同書佐嘉郡条には「世田姫」の説話が載り、同一神と見られている。
佐賀県を中心とする北九州地方には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち当社を含めた6社が嘉瀬川流域にある。境内は嘉瀬川そばの右岸に位置する。西門は元亀4年(1573年)造営で県の重要文化財に、三の鳥居は慶長13年(1608年)造営の肥前鳥居で市の重要文化財に指定されている。一の鳥居は立石交差点付近に立つ。
拝殿内に天井絵馬、三十六歌仙絵札額、奉納額などがある。天井絵馬は、祭神の與止日女命は一節によると豊玉姫ともいわれ、豊玉姫と関係ある「山幸彦海幸彦縁起絵巻」と境内社の天満社にちなむ「菅原道真公絵巻」の2巻から構成された250枚からなっている。三十六歌仙絵札額は、平安時代の和歌の名人三十六歌仙の人物画に代表的な和歌1首ずつを書き込んだ絵札である。元々、江戸時代後期に奉納されていた三十六歌仙絵札が老朽化していたため、新たに描きなおし2015年(平成27年)に奉納されたもの。天井絵馬、三十六歌仙絵札額は、ともに佐賀市在住・中国大連出身の画家、尹雨生の作である。
ウィキペディア
伝説
この地域では、なまずは、淀姫さん(與止日女命のこと)のお使いとされ、食すことがない。
肥前風土記の川上の神の条に「或は人其の魚を畏むものは殃無く、或は人捕り食へば死ぬこと有り」とあり、その魚は当地において、なまずに相当すると考えられている。
金精様
子孫繁栄のシンボル。境内に入ってすぐ右側に祀まつられています。神功皇后の三韓征伐の折り、当地に留まった妹神の與止日女命が、子宝に恵まれぬため密かに館の一隅にあった男根の自然石に肌をふれて子宝を願ったところ、色あくまで白く、きめ細やかにして玉の如き子供を授さずかったと伝えられています。子宝、子孫繁栄の御神徳。
與止日女神社が佐賀に多い理由 チャットGTPの回答
「與止日女神社」は、佐賀県に多く存在する神社の一つで、その理由については複数の説があります。
一つの説としては、佐賀県は古くから水運の要衝であり、船の交通が盛んであったことが挙げられます。船舶の安全や水の安定を祈願するために、「與止日女神社」が多く建立されたとされています。船舶の航行や水運が重要な地域では、水の神を祀る神社が存在することが一般的であり、佐賀県もそのような地域の一つとされています。
また、佐賀県には古代からの豪族である「唐津藩」や「佐賀藩」などの歴史的な豪族が存在し、これらの豪族が與止日女を崇拝し、それに関連する神社を建立したという説もあります。これらの豪族が船舶の安全や水の安定を願ったために、「與止日女神社」が多く建てられたのではないかとされています。
また、佐賀県は日本の陶磁器の生産地としても知られており、陶磁器の生産に関連する信仰や儀式が行われていたことも、「與止日女神社」の多さの理由の一つとされています。與止日女を陶磁器の守り神として崇拝し、その信仰を神社に反映させたのではないかという説があります。
これらのように、佐賀県に多くの「與止日女神社」が存在する理由は、船舶の安全や水の安定を願った信仰、歴史的な豪族の崇拝、陶磁器生産に関連した信仰など、複数の要因が絡み合っていると考えられています。
今話題のチャットGTPの文だが、よく書かれていると思う。
古代からの豪族である「唐津藩」や「佐賀藩」という部分だが、藩は江戸時代の名称で、それをそのまま古代の豪族というのはおかしい。
あと陶磁器の生産に関連する信仰や儀式という文があるが、この事に関しての出典や具体例が挙げられていない。
それに、與止日女神社の他の解説にも、この話題がまったくない。
佐賀県は古くから水運の要衝でありという事だが、たしかに平野部では治水に関していろいろ知恵を回していたようだが、多数ある與止日女神社のある場所が水運の要とは限らないようだ。
うーん。
日本におけるチャットGTPは、まだまだのようだと思う。
邪馬台国トヨ説
私が直感的に思ったのは、邪馬台国のトヨの末裔の信仰だと思った。
日本の神話に書かれていない邪馬台国の話を持ち出すのは、タブーなのだろうか。
どの解説にも邪馬台国のトヨの事に触れていないのは驚いた。
私は邪馬台国の歴史は九州北部に必ず残っていると思っている。
大和は邪馬台国が滅んでのち興った国なので、関係ないのかもしれないが、天孫降臨が熊襲などの豪族がいる地域の真っ只中で起こったことや、初代神武天皇が宮崎から出発したことを思えば、倭国の九州におこった古代国家のつながりは、否定できるはずもない。
台与
おなじみの魏志倭人伝に書かれている倭の女王卑弥呼の宗女の事である。
魏志倭人伝中では「壹與」であるが、後代の書である『梁書倭国伝』『北史倭国伝』では「臺與」と記述されている。ウィキペディア
(この文では新字体表記である壱与を使う)
卑弥呼の文字が、中華思想により蔑字を使っているとよく言われる。
それなのに二代目の壱与は普通の表記のように思える。
何故だろうか。
中国人にしてみれば、異国の「ヒミコ」は初見だし、倭人の女首長なので、インパクトのある「卑弥呼」にしたのかもしれない。
二代目の壱与の場合、ある程度、邪馬台国の状況がわかってきたし、やってきた中国人に貢物を渡している。
これによって、蔑字を使わなかったのだろう。
倭の邪馬台国と大和との繋がりは最重要な謎だけど、もし関連性があるとすれば、壱与の存在は、大和の歴史の中に紛れ込んでいるだろう。
それが「與止日女」ではないだろうか。
與止日女神社、川上神社がある地域こそ、邪馬台国壱与の国ではないだろうか。
佐賀では與止日女と書いてヨドヒメと読ませている。
魏志倭人伝中では「壹與」。
與止日女の與の字は、與止日女にも使われている。
卑弥呼は中国人がつけた文字だが、日本風に書けば日女子、日巫女とも書ける。
與止日女の文字の中に、日女子、日巫女の日女の字が入っている。
日本は言霊信仰の国である。
なので文字には重要な意味があるはずだ。
謎を解く
與止日女には、邪馬台国の「卑弥呼」と二代目「壹與」の名前が織り込まれている。
なので與止日女が豊玉姫だったり、神功皇后の妹という話が出来上がった。
「卑弥呼」と二代目「壹與」は当然年代が違う。
年上の「卑弥呼」のほうが、神話の豊玉姫。
その子供「壹與」は神功皇后の妹なのだ。
大和にしてみれば、倭の国の歴史なので古事記には載せていないのだ。
しかし、血統や言霊を重要視する大和人は抹殺する事は出来なかった。
なぜなら、歴史から消し去ってしまえば「災い」が起こるかもしれないからである。
これが私の推理である。
高速道路に乗って佐賀市大和町の與止日女神社を参拝した。
立派な社殿と神殿である。
神殿の千木を見ると、垂直(外削ぎ)に切られている。
俗説かもしれないが、祭神が男神の社は外削ぎ、女神の時は内削ぎになっているという説がある。
研究者の三浦正幸(広島大学大学院教授)によると、全くの俗説だと述べている。ただ祭神による千木の形の区別については、神社本庁の公式見解では「必ずしもそうとは限りません」と控えめに言うに留めているとある。
千木
出雲大社 男神(外削ぎ)大国主命
伊勢神宮 女神(内削ぎ)天照
春日大社 男神(外削ぎ)武甕槌命
住吉大社 男神(外削ぎ)底筒男神、中筒男神、表筒男神
宇佐神宮や石清水八幡宮、伏見稲荷大社には屋根に千木はない
これらを見ると男神が外削ぎになっているように思える。
しかし違う説もある。
縦削ぎの男千木は「出雲式」。横削ぎの女千木は「九州式」という。
なるほど、そういう視点もある。
神社は木造なので、時代が経てば補修したり、作り替えたりする。
ただ、巨大な神社を補修したりするのには多額の金がかかるのは事実である。
なので目立つ千木の向きにも、その時の権力者の意向が反映しているはずである。
想像だが、大和の象徴、伊勢神宮の内削ぎに対抗して、與止日女神社は女神なのに外削ぎにしたような気がする。
江戸時代大名の外様と旗本の違いに似ているのかな。
與止日女神社の立派な神殿を見て、ふとそう思った。