二十六聖人の事実とその背景の歴史

 

ムービーの内容

この事件は、1549年、フランシスコ・ザビエルが、初めて日本に上陸して48年後の1597年に、起きた事件です。

キリスト教の信仰を理由に日本で最高権力者の指令による処刑が、行われたのはこれが初めてでした。

この26聖人のうち、5人はスペイン人、1人はポルトガル人で、残りの20人が日本人です。 処刑されたのは、フランシスコ会宣教師6名と日本人信徒20名です。

事件の内容は、キリスト教の布教が進み始めていた日本が、その布教の下にスペインの陰謀があるのをかぎつけ、禁教政策がとられていた時の話になります。

フィリピン使節として来日したスペイン系修道会「フランシスコ会」のイタリア人宣教師であるペドロ・バプチスタらが、禁教下であるにもかかわらず公然と布教したことなどの様々な要因が重なり、豊臣秀吉はスペインが日本を占領しようとしていると激怒。ペドロ・バプチスタらフランシスコ会の宣教師やキリシタンを捕縛し、1597年(慶長2年)、見せしめのために京都から長崎までの道中を引き回した末、長崎で全員を十字架にかけて処刑しました。

なぜカトリックの宣教師が日本にやってきたかといえば、16世紀のドイツ(神聖ローマ帝国)でマルティン・ルターが起こした宗教改革により、カトリックとプロテスタントの対立が激しくなりました。

腐敗したカトリックの教会主義とプロテスタントの聖書主義の対立はさらに激化し、次第にカトリックの権威が下降し始め、その劣勢を取り戻すために、植民地化が進んでいたインドや東南アジアに宣教師は派遣されていきました。

そして、日本にやってきたのは「神の軍隊」と呼ばれるイエズス会のフランシスコ・ザビエル

日本にやってきたフランシスコ・ザビエルは織田信長の庇護を受けることにも成功したのですが、豊臣秀吉の安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が起こりました。

さらに日本人を奴隷として海外に売り飛ばしたり 、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としている」という事実が露見したので、秀吉はバテレン追放令を発布し、宣教を禁止しました。

外交的で日本文化に適応する政策をとっていたイエズス会はおとなしくしていましたが、原理主義的で積極的なフランシスコ会は、日本の禁教令に構わず、京都で活発的な宣教活動をしていました。

これを挑発的であると考え、秀吉は京都奉行の石田三成に命じて、フランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑します。

日本統一を目指していた秀吉は、見せしめに長崎まで連れまわし、西坂の丘で処刑しました。

ヨーロッパのアジア侵略と、腐敗したカトリック勢が日本で起こしたこの事件は、その後鎖国政策まで発展し、日本の進路を大きく変えてしまいました。

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