長崎くんち 謎のキリシタン神輿

諏訪神社一の鳥居

諏訪神社一の鳥居

「くんち」とは九州北部における秋祭りの呼び名です。「宮日」や「供日」とも書き、旧暦の9月9日(重陽の節句)に行われていたことから「くんち」と呼ばれるようになった説が有力です。

その代表格である「長崎くんち」は、長崎の氏神である諏訪神社の秋季大祭として知られています。

諏訪神社には現在、「諏訪」「森崎」「住吉」の三柱が祀られています。しかし、このうち「森崎」の神様だけは、全国的にも類を見ない謎に包まれた存在です。

長崎くんち御旅所

長崎くんち御旅所

全国に約25,000社ある諏訪神社(総本社は長野の諏訪大社)や、全国に約600社ある住吉神社は誰もが知る大社です。しかし「森崎神社」は、一般的な神名帳にもほとんど見当たらない無名の社でした。

社伝によれば、弘治年間(1555〜1558年)より長崎に祀られていた諏訪・森崎・住吉の三社が諏訪神社の起源とされています。

かつての長崎は、16世紀末から17世紀初頭にかけて「キリシタンの町」でした。キリシタン大名・大村純忠による寄進以降、仏教寺院や神社はことごとく焼き払われ、一時期は異教の地となっていたのです。やがて徳川幕府による禁教令が出されると、キリシタンの広まりに対抗し、町を再編する象徴として再興されたのが現在の諏訪神社でした。当時の記録には、社殿建立にあたりキリシタン教徒からの激しい妨害があったことも記されています。

森崎とは

では、「森崎」とは何だったのか。 森崎とは元々、長崎港に突き出た岬の突端付近を指す地名でした。開港後、この岬の先端にはかつて、イエズス会のメルキオール・カルネイロ司教や宣教師らによって建てられた「岬の教会(被昇天の聖母教会堂)」がありました。禁教とともにこの教会堂は破壊され、その跡地に建てられたのが「森崎神社」だったと伝わっています。

さらに興味深いのは、「長崎くんち」の神輿渡御の記録です。

寛永11年(1634年)、長崎くんちの始まりとともに大波止の御旅所へ下った神輿は、諏訪神社と住吉神社の2基だけでした。最初から森崎神社が神輿として繰り出されていたわけではなかったのです。

森崎大神の祭典が組み込まれたのは元禄3年(1690年)、そして実際に森崎の神輿が加わり、現在のように3基揃って坂を一気に駆け下りるようになったのは、実に宝永2年(1705年)のことでした。

くんちの創始から森崎神輿が加わるまでの約70年間、長崎と九州は何を経験していたのでしょうか。

過酷を極めたキリシタン弾圧、殉教の嵐。そして寛永14年(1637年)には、過酷な収奪と弾圧に耐えかねた農民・信徒たちが蜂起した「島原の乱」が勃発します。天草四郎を押し立てた一揆は徹底的に鎮圧され、首謀者たちの首は、完成間もない出島の門前へと運ばれ晒しものにされました。

激動と悲劇の歴史が刻まれた長崎において、人々が死者たちの無念や祟りを恐れなかったはずがありません。天草四郎らの首が埋められた地には、のちに民衆の手で供養の地蔵が建てられました。「祟りを恐れ、霊を鎮めるために神仏として祀る」――これは怨霊信仰をはじめとする、古来の日本人が持ち続けてきた根源的な祈りの心です。

時代は下り、元禄から宝永へ。第5代将軍・徳川綱吉の治世(生類憐みの令が出された時代)を経て世が泰平へと向かう中、かつて教会堂が建っていた地に由来する「森崎」の神輿が、満を持して大祭の列へと加わりました。

長崎くんち お下り

長崎くんち お下り

キリシタンを排斥するための神社でありながら、その最後の一基には、かつてこの地で命を落としていった異教の魂をも包み込み、鎮めるための祈りが隠されていたのではないか――。

絢爛豪華な長崎くんちの熱気の中、石段を勇壮に駆け下りる3基の神輿を見上げるとき、そんな長崎ならではの哀しくも深い歴史の陰影が浮かび上がってくるのです。

「祟りを恐れて供養する」のは、日本人の基本的な感情だと思います。

なので長崎人は特別騒ぎ立てたりしませんでした。
 
きっと「暗黙の了解」があったんだと思います。
 
岬の教会(被昇天の聖母教会堂)跡

岬の教会(被昇天の聖母教会堂)跡

※本記事は2026年9月に内容をの加筆・修正を行いました。

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