長崎くんち 謎のキリシタン神輿
「くんち」とは九州北部における秋祭りの事です。「宮日」「供日」とも書きますが、旧暦の9月9日に行ったので「くんち」と呼ぶという説が有力です。
「長崎くんち」は、長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭です。
諏訪神社には、諏訪・森崎・住吉の3柱が祭られています。しかし「森崎」の神様の由来が定かではないのです。
諏訪神社は全国に約25,000社あり、長野県の諏訪湖近くの諏訪大社を総本社としています。住吉神社は、主に住吉三神を祀る神社で日本全国に約600社あります。
この二つは、メジャーでよく知られていますが、「森崎」の神様は全くの無名な神社です。
ウィキペディアより諏訪神社は弘治年間より長崎に祀られていた諏訪神社・森崎神社・住吉神社の三社が起源である。
長崎はご存じの通り、1600年前後はキリシタンの町でした。一時期は、仏教徒を迫害し、神社や寺を焼き払うほどであった。長崎奉行や代官など、権力側から援助を受け、キリシタンの広まりに対抗するため、諏訪神社は建てられた。
記録にも社殿の建設にあたりキリシタン教徒の妨害がひどかったという記述があります。
一般的には、キリシタン弾圧の印象が強く、常に、逃げ隠れをしていた信者というイメージが強いと思われますが、長崎の藩主、大村純忠は自分の利益のために、自ら長崎をキリシタンの町に変えた経緯があります。
また、諸外国には日本を植民地化する計画もあり、きな臭い部分もあったのです。
諏訪神社の「森崎」とは地名で、開港されて中心地になった、岬の最先端にあります。
諏訪神社が建つ前には、「森崎」には小さな聖堂がありました。ベンチョル・デ・フィゲレイト神父が建てたイエズス会の施設を持つ「被昇天の聖母教会」です。
その後、キリシタン弾圧が始まり、この聖堂は破壊され「森崎神社」が建てられたといいます。
更に、記録に「1634年9月7日に大波止の御旅所に、諏訪神社と住吉神社の神輿渡御を行う」とあります。
つまり諏訪神社の最初は、ご神体は2つだけだったのです。
いや最初から森崎神社は、合祀されていなかったのです。
ここまでは、色んな方がHPにも書いてあり、僕だけが発見したのではありません。
「おくんち」を撮影していて、「森崎神社」の事を調べる内に、色んな方が調べていることを発見し、自分なりにまとめた物です。
他のHPには森崎大神の祭典の始まりは1690年と書かれていました。
さらに神輿の渡御が始まったのは1705年とされています。
森崎神社が合祀されるまでの期間、何があったかというと、日本史上、類のないキリシタン大虐殺の歴史があった。
西洋の魔女狩りのように、その行為は悲惨そのものでした。
そして、1633年、全国的な凶作がおこり島原の乱が起こりました。
天草 四郎という少年の話もあります。
島原の乱は鎮圧され、首謀者の首は、日本唯一の外国人居留地、出来たばかりの出島の門前にならべられ、さらしものにしたとあります。
そんな激動の時代の長崎で、キリシタンの祟りを恐れる事は当然だったと思われます。
天草四郎たちの首が埋められたとされる地には、何時しか民間人の手によって、地蔵が建てられています。
「祟りを恐れて供養する」のは、日本人の基本的な感情だと思います。
時代は江戸時代の元禄になり、1684年には徳川吉宗の生類憐れみの令が出されています。
そんな時代背景の中で、森崎神社は「おくんち」に登場します。
しかし長崎人は特別騒ぎ立てたりしませんでした。
きっと「暗黙の了解」があったんだと思います。