なぜ壱岐対馬は長崎なのか
これについても知らない人が多い。だけど知っていたほうがいいと思い書く。
明治維新前は対馬藩という独立した国だった。明治新政府は国の形を変えようと、廃藩置県を断行する。
そして対馬藩は佐賀県に編入され伊万里県となったのだ。
なぜ対馬は距離的に近い福岡じゃなかったかというと、対馬は佐賀に飛び地の領土を持っていたからだ。
対馬以外に九州の田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)と浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)という飛び地を持っていた。ウィキペディア
しかし1年後、伊万里県の名称を佐賀県へ変更している。
さらに5年後の1876年 佐賀県が三潴県(みずまけん・福岡県筑後地方)に吸収される。
三潴県は筑後国(福岡県西南部)を管轄するために設置された県である。
明治の新政府になったのはいいが、方針が定まらず県の設置が二転三転していた事がよくわかる。
しかしその年のうちに三潴県が解体され、筑後地方は福岡県へ佐賀地方は長崎県へ編入された。
佐賀県は短期間のうちに伊万里県→三潴県(みずまけん)→長崎県となったのである。
ちょっと変わり過ぎだと思うが、実は理由があった。
佐賀県で明治7年(1874年)に佐賀の乱という大規模反乱を起こしている。
これは江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。明治維新では薩長がメインとなって役職についたのだが、佐賀県人も大いに貢献していた。佐賀の七賢人と呼ばれる、大隈重信、副島種臣、大木喬任、江藤新平、佐野常民、島義勇、鍋島直正らは維新後活躍していたからだ。
ただ一部の士族らにすれば、十分な恩賞もなく新政府にも重用されなかったという不満がくすぶっていた。その不平分子をなだめに行った江藤新平・島義勇は政府と交渉したのだが、政府の強硬な態度で腹を立て、ついに決起した。
「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」と江藤新平が語ったという。
明治維新では、多くの下級武士たちの血が流れている。ただすべての武士たちが報われることはない。西郷隆盛の西南戦争も結局はそうであり、情に厚い律儀な指導者達は政府と対立することになったという典型である。
その反乱の懲罰的な意向が働き、佐賀県は長崎県に組み込まれ無くなってしまった。
なので、その時点では長崎は壱岐・対馬・佐賀を含む県となっていたのだ。
その期間は1876年から1883年の7年間。家なき子ならぬ県なき佐賀人だった。
しかし佐賀県は、長崎県に組み込まれたのが一番カチンと来たみたいで、強力な反対運動を起こしている。
そしてついに1883年(明治16年)に佐賀県が復活した。
という訳で、対馬はそのまま長崎県となったのである。
だいぶ長くなったが長崎の成り行きに、佐賀県は大いに関係してくる。長崎が開港してキリスト教徒の街になったのも、後藤貴明と佐賀藩の家臣団に大村純忠が目の敵にされたからである。
対馬の議会では対馬を福岡に編入する運動も起こっている。
対馬から島外に行く場合、福岡が圧倒的に多いそうで、長崎には一度も行ったこともない人も多いそうです。
テレビは、福岡のテレビを受信しているようです(県内の天気には福岡の地名ばかり出てきます)。
さて、壱岐対馬は本当に長崎県でいいのかどうか、再考が必要かもしれない。