なぜ壱岐・対馬は長崎県なのか?福岡ではない意外な歴史

 

地図を眺めていると、ふと不思議に思うことがある。

「壱岐や対馬は、なぜ長崎県なのだろう?」

特に対馬から福岡までは船や飛行機で行き来する人も多く、生活圏という意味では福岡との結びつきが強い。それなのに行政上は長崎県である。

「昔から長崎県だったのだろう」と思ってしまうが、実はそうではない。

その答えを探っていくと、明治維新直後の日本で、県境が驚くほど頻繁に変更されていた時代へたどり着くのである。

明治維新

江戸時代、壱岐と対馬は別々の藩だった

まず知っておきたいのは、江戸時代には現在のような「長崎県」は存在していなかったことである。

壱岐は主に平戸藩の領地であった。

一方、対馬は宗氏が治める**対馬藩(府中藩)**であり、朝鮮との外交や貿易という重要な役割を担っていた。

つまり壱岐と対馬は、現在こそ同じ長崎県に属しているものの、江戸時代にはまったく別の行政単位だったのである。

明治4年、全国で「廃藩置県」

1871年(明治4年)、明治政府はそれまでの藩を廃止して県を置く「廃藩置県」を行った。

壱岐は平戸藩に属していたため、最初は平戸県となる。

その後、同じ1871年11月には平戸県、大村県、島原県、福江県などが統合され、壱岐も新しい長崎県の管轄に入った。

現在の壱岐市も、1871年11月14日に長崎県の管轄となったとしている。

つまり、壱岐が長崎県になったのは、旧平戸藩が長崎県へ統合された流れによるものなのである。

対馬は一度「伊万里県」になった

少々ややこしいのが対馬である。

廃藩置県によって対馬藩は**厳原県(いづはらけん)**となった。

ところが、その厳原県は1871年11月、佐賀方面を中心とする伊万里県へ統合される。

対馬がなぜ伊万里県に入ったのか。

一つの背景として、対馬藩を治めていた宗氏が、対馬だけでなく現在の佐賀県鳥栖市や基山町周辺などにも領地を持っていたことが挙げられる。

江戸時代の藩は、現在の都道府県のように必ずしも一枚の地図の中にきれいに収まっていたわけではない。遠く離れた場所に「飛び地」を持つ藩も珍しくなかったのである。

対馬が長崎県になったのは1872年

伊万里県はその後、佐賀県と改称された。

ここで対馬は一時的に佐賀県側に入ることになる。

しかし、それも長くは続かなかった。

1872年(明治5年)8月、対馬は佐賀県から長崎県へ移管された。

長崎県の公式資料にも、

「1871年 厳原県が伊万里県に合併」
「1872年 対馬が長崎県に移される」

とはっきり記されている。

したがって、対馬が長崎県になった直接の経緯は、

対馬藩 → 厳原県 → 伊万里県(のち佐賀県) → 長崎県

という流れなのである。

佐賀県が一時消えていた時代

さらに話をややこしくするのが、明治初期の佐賀県である。

1876年(明治9年)、佐賀県はいったん廃止され、**三潴県(みずまけん)**へ統合された。

その後、三潴県も同じ年に廃止され、旧佐賀県の地域は長崎県へ編入される。

そのため1876年から1883年までの約7年間、現在の佐賀県の地域は長崎県の一部だった。

現在の感覚から考えると、

「佐賀県そのものが長崎県だった時代がある」

というのだから、かなり驚く。

そして1883年(明治16年)、佐賀県が再び分離して復活し、現在に近い長崎県と佐賀県の境界が出来上がった。長崎県の資料でも、現在の県域がほぼ確定したのはこの時期とされている。

では「佐賀の乱への懲罰」で佐賀県は消されたのか

1874年(明治7年)には、江藤新平や島義勇らによる佐賀の乱が起きている。

そのわずか2年後に佐賀県が廃止されたため、

「これは佐賀の乱に対する明治政府の懲罰ではなかったのか」

という見方も昔からある。

確かに時期だけを見ると、そう考えたくなる。

しかし明治初期には全国で県の統廃合が猛烈な勢いで進められており、佐賀だけが特別だったとは簡単には断定できない。

この時代の地図を見ると、県名も県境も現在とはまるで違う。

明治政府自身が、まだ日本という新しい国の行政地図を描き直している最中だったのである。

江藤新平/国立国会図書館蔵

 

なぜ対馬は福岡県ではないのか

ここで最初の疑問に戻ろう。

対馬から本土へ出る場合、現在では福岡との交通が非常に便利である。

博多との航路もあり、航空路も福岡との結びつきが強い。そのため、

「対馬は福岡県の方が自然ではないか」

と感じる人がいても不思議ではない。

しかし都道府県の境界は、単純な距離だけで決められたものではない。

江戸時代の藩の領地、明治初期の県統合、行政上の都合などが複雑に重なり、現在の県境になったのである。

対馬が福岡ではなく長崎に属しているのも、その歴史の結果である。

壱岐と対馬が長崎県なのは「偶然のような歴史の積み重ね」

整理すると、壱岐と対馬では長崎県になった経緯が少し違う。

壱岐
平戸藩
↓
平戸県
↓
1871年、長崎県へ統合

対馬
対馬藩
↓
厳原県
↓
伊万里県(のち佐賀県)
↓
1872年、長崎県へ移管

そして1883年に佐賀県が長崎県から再び分離し、現在に近い県境が完成した。

つまり「壱岐・対馬は昔から長崎だった」というわけではない。

明治維新という巨大な社会改革の中で、県がくっついたり離れたりを繰り返した結果、現在の長崎県が出来上がったのである。

今の都道府県地図を見ていると、まるで昔からそこに境界線が引かれていたように思えてしまう。

しかし実際には、明治政府が試行錯誤しながら引いた線が、150年以上たった現在まで残っている場所も少なくない。

「なぜ壱岐・対馬は長崎県なのか」

その答えは、距離の問題ではなく、明治維新後の県づくりの歴史にあったのである。

 

対馬 清水山から見た厳原市街

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