大浦諏訪神社 激動の大村藩主が作った神社
長崎市相生町と言ってもピンとこないが、大浦天主堂のすぐ傍にある神社である。
祈りの三角ゾーン(大浦天主堂、妙行寺、大浦諏訪神社)という事でアピールをしている。
西山の諏訪神社の本家なのだが、なにせ周りには、グラバー園と大浦天主堂という長崎のメインの観光地があるので、大浦諏訪神社まで人が流れてこないのが現状である。
由緒 創建は天正年間(1573~1592)といわれる。元禄6年(1693)大村藩主・大村純長が武運長久、子孫繁栄のため社殿を建立した。例祭は10月17日大村藩主の社殿建立の日を祭日とし、「大浦くんち」と称し神幸祭が行われる。(「長崎県大百科事典」より)
波乱万丈の大村藩
大村藩は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川勢に味方していたので、大村純忠の子喜前(よしあき)が初代となり、大村藩がスタートしている。
大村純長は大村藩の第4代藩主である。
あのキリシタン大名の大村純忠の長男が喜前(よしあき)で大村藩初代、その後純頼、純信と藩主になっている。
2代の純頼は28歳で急死し、跡継ぎを届けていなかったため藩存亡の危機に陥った。
かつて純頼は国元で子を儲けていたが、理由は定かではないがその子を堕胎させるよう命じていた。
しかし家老の大村純勝はひそかに出産させ、純頼を説得してその子・松千代を助命させた。大村家は純頼が松千代を末期養子に迎えたように装い、近隣大名や幕閣を説得にかかった。
まるでドラマのような展開である。
そして1620年5月に松千代の家督相続は認められ、3代藩主純信の誕生になった。
しかし純信も病弱であり、正室の父であり甲斐徳美藩主の四男権吉を養子に迎え、彼が第4代藩主・純長になった。
なので、キリシタン大名の大村純忠とは違い、大村藩主は幕府よりなので、大浦諏訪神社を建立したのはうなずける。
宣教師によって毒殺された大村藩主
大村藩初代の喜前(よしあき)もキリシタンとして洗礼を受けていたが、バテレン追放令を受けて領内から宣教師を追放して、朝鮮出兵以来、領内に禁制を布いていた。
そして公然とキリスト教を捨てて棄教して日蓮宗に改宗したのだ。
父は強烈なキリシタン、しかし子は棄教して日蓮宗になったのである。
これは大村藩が生き延びるための、苦渋の決断だったと思われる。
大村領では40年前からキリスト教が伝わっていて、信者も6万人ほどだったが、幕府側に立った喜前は、自ら棄教しイエズス会との交際を断ち、数人の外国人宣教師を捕らえ処分している。
大村領でのキリスト教禁教は、徳川幕府の禁教令より7年ほど早かったのだ。
実に素早い身代わりだった。
しかし、キリシタン宣教師には恨まれ、47歳でキリスト教徒によって毒殺されたとされている。
2代目の大村純頼(すみより)も同じようにキリシタンを弾圧した。そして彼もまた28歳で急死している。
この事件もまたキリスト教徒に毒殺されたと言われている。
恐ろしいことである。
諏訪神社
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)という。出雲の国譲りの場面に登場する武闘派の神様で、お父さんは大国主神(オオクニヌシ)である。
古事記の記述を簡略して書く。
高天原から派遣された建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫った。
その時建御名方命は巨大な千引の石を手先で差し上げながら現れ、タケミカヅチに力競べを申し出た。
結局高天原の建御雷神が勝つ。
面白いのは「古事記」と「旧事本紀」では征服される神として描かれるタケミナカタは、諏訪地方に伝わる伝承では現地の神々を征服する神として登場する。ウィキペディア
なので、諏訪神社には建御名方命を祀っているのだ。
諏訪という名前だが、諏訪明神が大荒神となって天下を悩ませている「蝦蟆(蛙)神」を退治して、四海が静謐となった。このことから「波しずか」とも読める「陬波(すわ)」という名を得たという。
つまり、諏訪明神は戦いの神様で、なので大浦諏訪神社には、日露戦争の英霊を祀っていると推測する。
また皇太子殿下御誕生記念の碑や砲弾が祀られているのも、この神社が大和朝廷に関係している神様を祀っているからである。
西山の諏訪神社は、対キリシタンのために作られた神社なので、大浦諏訪神社とは神様関係ではあまり縁がない。
銅像
階段の中ほどの家の前に銅像がある。
碑文より、隈部登馬男(明治25:1892-昭和48:1973)は南高布津村(現 南島原市布津町)出身で、昭和初期に日の出町において自治社会福祉事業遺族会に尽力し、さらに長崎市議、長崎県議にも在職していました。また、大浦諏訪神社の復興に力を注・・・以下略『広助の丸山歴史散歩』
広助さんのホームページは、一般の説明に載っていない事項も多く解説がある。大したもんだと思う。
大きい立派な神社だが、人が少ないのが気になる。
なんだか残念である。