諏訪神社の中の施設 諏訪荘と祖霊社、オランダの非道な植民地政策

諏訪神社には、たくさんの神社や施設も併設されている。

案内図を見れば、本殿の右横にまとめられている。

案内図

今回はこれらの神社を撮影した。

諏訪神社斎館 諏訪荘

諏訪荘

大正時代の豪商が贅(ぜい)を尽くして建てた和風邸宅が、長崎市の諏訪神社近くにあった。昭和に入り高級旅館「諏訪荘」として運営され、作家の丸谷才一が日本三大名旅館の一つに挙げたこともある・・2018/7 長崎新聞

立派なレトロ旅館である。もう一つ「富貴(ふうき)楼」という、いい建物があったのだが、結局解体されてしまった。

残念である。

ここで、文句を言いたいのは、長崎市政だ。

観光都市を目指すという事で、いろんな所で工事が行われている。

だが、今回のコロナウィルス騒ぎで、中国共産党と、反日韓国を相手にした観光が、どんなに脆いものなのかというのが、身に染みたはずである。

なので、まず長崎市内にたくさんある、中国語と韓国語の案内をなくそう。日本語と英語だけで十分だ。

看板

フェートン号事件

祖霊社

祖霊社とは、1808年に長崎港内で起こったフェートン号事件の結果、切腹した長崎奉行を慰霊するために作られた最近の社である。

フェートン号

この事件は、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまで及んだもので、長崎は被害者だ。

少し長くなるが事故の顛末を書く。

ナポレオン戦争で、オランダはフランスに占領され、世界各地にあったオランダの植民地はすべてフランス帝国の影響下に置かれることとなった。

そして、アジアの制海権は既にイギリスが握っていたため、旧オランダ(つまりフランス)支配下の貿易商は、中立国のアメリカ籍の船を雇って長崎と貿易を続けていたのだ。

1808年10月4日、オランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートンは、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。

この辺りがふざけている。戦争に勝っているイギリスは、日本の事など、全然、気にしていないのだ。

イギリス海軍のフリゲート艦フェートンを、オランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員の2名を小舟で派遣し、長崎奉行所のオランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装ボートによって商館員2名が拉致され、船に連行された。

それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。

これが、イギリスの日本に対する態度なのである。

長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。

つまり、完全に長崎奉行を無視したのである。

オランダ商館長は長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い、戦闘回避を勧めた。

オランダ人はイギリスの強さを知っていたからである。

長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する鍋島藩・福岡藩の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。

ここまでは、よかったのだが肝心の長崎警衛当番の鍋島藩が、太平の平和に慣れて経費削減のため、守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。

これまでの平和で、完全に高をくくっていた鍋島藩が悪いのだが・・

長崎は貿易港で、外国船はやってきていた。長崎の開港は、ポルトガル貿易船が入ってきた1571年に制定しているが、その時の日本の軍事力は外国を圧倒するくらい、強力だった。

だから、これといった紛争はなかった。あの傍若無人で、凶悪な西洋が手を出さなかったくらい、日本は武装されていたのだ。

だが、その時代から200年以上たっている。

西洋では、18世紀後半にイギリスから始まった産業革命で、ジェームズ・ワットの蒸気機関を生かした軍艦もできている。その差は大きかったのだ。

あわてた松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた

翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料(米・野菜・肉)の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船を焼き払うと脅迫してきた。

人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。

長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた

17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。

松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った

対応は遅かったのである。

まあ、長崎港には何の被害もなかったのだが、国防という点から見れば、最低だったといえる。

その結果

長崎奉行の松平康英は、国威を辱めたとして自ら切腹。

勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹。

鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、藩主鍋島斉直に100日の閉門。

こんな事件である。

しかし、この事件後、鍋島藩は次代鍋島直正の下で近代化に尽力し、明治維新の際に大きな力を持つに至っている。

鍋島直正

あまり知られてはいないが、佐賀の七賢人という言葉がある。

鍋島直正、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信をいうとある。

特に大隈重信は第8代と17代と内閣総理大臣をやった人物で、早稲田大学の創設者でもある。

大隈重信

ちなみに、徳川幕府が大政奉還をして、明治維新が動き出した時、長崎奉行は、尊王派の襲撃を恐れて、奉行所の金を持って逃げだしている。

以上がフェートン号事件である。

この事件はイギリス海軍が一方的に悪いのだが、オランダだってあくどい事をしてきていた。

長崎にとってオランダはとても親しみのある国だが、ついでにオランダの悪行を述べておく。

くんち

オランダ海上帝国の植民地政策

17世紀から18世紀にかけてオランダは、力にものを言わせ、世界の発展途上国を侵略し続けていた。

オランダの植民地を挙げよう。

オランダ領東インド、台湾、セイロン島(スリランカ)、西アフリカ、ケープ植民地、北アメリカ、オランダ領ギアナ、オランダ領アンティル、オランダ領ブラジル。

こんなにたくさんある。なのでこの時代のオランダはオランダ海上帝国と呼ばれていたのだ。

まあ、オランダだけではなく、ヨーロッパの植民地政策は、あくどくて、過酷なものばかりである。

特にオランダが「東インド」と呼んだ、インドネシアあたりの国に対して行った行為は、聞くに堪えない事ばかりである。

以下の文は

オランダの過酷な植民地政策
https://hinode.8718.jp/colony_indonesia_colonial_policy_netherlands.html

から、抜粋、引用させていただいた。

お前たちはやくざか!

デンパサール(インドネシア)

インドネシアでは、耕地面積の5分の1はコーヒー茶などオランダ向けの生産物を強制的に栽培させた。

このため、多くの村が崩壊し、食料自給体制は解体、餓死者が続出し平均寿命は35歳にまで低下した。

その結果、稲作の減少による米価の高騰を招き、1850年には強制栽培に凶作が重なり飢饉が起こり、ドゥマックの村は人口が33万6000人から12万にゴロボガン村では人口8万9500人が9000人に減少。

オランダ植民地時代のアチェ https://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201001/article_19.html

米の自給自足を止めさせて、海外から持ち込んだ安い米を高値で買わせるように仕向けた。

オランダ人は、それらの運用を華僑に請け負わせてインドネシア人の不満を華僑に向かわせるように仕向けていた。

ヨーロッパ人はは、自分たちが恨まれないように、その国の民や、他の国の人間を使って、過酷で残酷なことをやらせる。

卑劣極まりない。

さらに、ギャンブルや売春を持ち込み、労働者が借金漬けになるように仕向けている。

この辺りは、極悪なやくざとそっくりである。

さらに、インドネシア女性にオランダ人との混血児を積極的に生ませた。

その理由は、間接統治の役人にするためである。そしてインドネシア人の政治参加、行政参加はほとんど禁止する。

つまり、インドネシアを、オランダ人とインドネシア人の混血と中国人にやらせ、利益だけをオランダが吸い取るのだ。

愚民政策

さらに酷いのは、愚民政策という奴である。

オランダはインドネシア人に教育を施さず、民衆を文盲のままにした。

知識階級が生まれることで、独立心・反抗心が芽生え広がることを防ぐのが、文盲・愚民政策の目的であった。

そして、道徳として、先生父母を尊敬する、貧しい弱い者を助ける、下層を軽蔑しない、人として礼儀正しく、勤勉奉仕の心などは絶対に教えない。

オランダ人は神のような存在であり、絶対服従することが当然であるように、洗脳教育を繰り返して教え込んでいたのである。

340年間の支配

オランダによる支配は、340年間も続いている。

日本の歴史でいえば、江戸時代から昭和初期くらいの期間である。日本人の私からすれば、想像を絶する長さだ。そして、こんな事をいろんな国でやっていたのである。

この非道なオランダ支配を終わらせたのは、日本である。

植民地支配を終わらせた日本

第二次世界大戦で1942年日本軍が侵攻し10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。

1941年日本とオランダは敵対し、大東亜戦争が始まるとオランダ政府は日本政府に対して宣戦布告。

これに応じて日本軍は1942年、スマトラ島とジャワ島に進攻した。オランダ領東インド軍は、3月10日に日本軍に全面降伏した。

旭日旗を掲げ、セレベス島入りした日本軍

この時の話を昔書いているので興味のある人はどうぞ

インドネシアの伝説。空からやってくる黄色い人々とは日本軍だったのか
https://artworks-inter.net/ebook/?p=3400

その後日本軍は、軟禁されていたスカルノ(今テレビで活躍しているデヴィ婦人の夫)やハッタなどの民族主義運動の活動家を解放。

スカルノ大統領とデヴィ婦人

その後スカルノやハッタと協力体制を取り、さらにインドネシア人を現地官吏に登用したほか、「インドネシア」という呼称を公の場で使用することを解禁した。(オランダは、これまで「東インド」と勝手に呼んでいた)

さらに1943年には、日本軍の協力を得てインドネシア人指揮官がみずから率いる「民族軍」である郷土防衛義勇軍(ペタ)を組織する事になる。

設立された民族軍ではあっても、占領期間中は日本軍の指揮下に置かれ、そこでは日本軍の軍人勅諭が用いられ、祖国のための自己犠牲の尊さ、闘う勇気などについて、インドネシア人青年は徹底的に教え込まれている。

インドネシア独立戦争

日本の敗戦がにおいだすと、日本軍はインドネシアの独立を準備しだすが、日本敗戦になった時点で、独立準備は中止されることとなってしまった。

混乱しているインドネシアだが、スカルノ、ハッタらは日本軍人、前田精海軍少将邸に集まり、独立宣言を起草し採択、連合国の了解を得ることなく、インドネシア独立宣言を発表し、スカルノを首班とするインドネシア共和国が成立したのである。

前田精海軍少将

マイクのスカルノ(右はハッタ)

日本軍が、すべて正しいとは言わない。インドネシアからオランダを追い出したのも、日本の利益になるからである。

インドネシア独立に関しても、日本軍占領下では認めていないのも、その一つである。

しかし、日本がインドネシアの独立の為に、大いに力になったのは事実である。

大戦に敗れた日本軍は、連合軍の命令により、インドネシア人の独立派への武器引渡しも厳禁とされていた。

しかし、日本軍部隊が上官の命によって兵器の集積庫を開放し、横流しした例もある。

その結果、日本軍からは3万丁以上の三八式歩兵銃、数百の野砲・トラック、食料、弾薬、軍刀など多くの資材が独立派の手に渡っている。

さらに、日本に引き揚げずに独立派に身を投じた元日本兵は数千人に上ったのである。

インドネシア独立戦争を題材とした映画作品がある。

『ムルデカ17805』 - インドネシア独立戦争に参加した日本兵を描いた日本・インドネシア合作映画。藤由紀夫監督。2001年に制作され、日本とインドネシアの両国で上映された。

ムルデカ 17805

ムルデカとは、インドネシア語で「独立」を意味し、"17805" は日本の皇紀2605年(1945年・昭和20年)8月17日の数字を日(17)・月(8)・年の下2桁(05)の順に並べたものである。

祖霊社の話に戻る。

祖霊社

諏訪神社は長崎の氏神として作られているので、長崎の為に命を落とした人たちを祀るというのは、筋が通っている。

当神社の祖霊社には江戸時代末期の長崎奉行松平康平大人命をはじめ、諏訪神社歴代宮司、長崎の神道家のご祖先をおまつり申し上げております。案内板より

神葬祭というのがある。

神葬祭

つまり、神社で行う葬式である。

今でも葬式は仏式がほとんどだが、値段が不透明で、大体200万円ぐらいかかるといわれている。

神社の葬式は、これより安いとされているので、今後神社も値段を安くして、神葬祭を広めるのもいいかもしれないと思う。

神社にある祖霊社は、仏教でいう仏壇に代わる物として登場している。本来、仏壇とは仏像を祭るためのものである。

神道の場合、飾るのは祖先神であり、家の守護神として拝む事になる。

悪くはないと思う。

新式の葬式が増えれば、日本の葬式を食い物にしている寺たちに、カツを入れるにはいいかも・・ね。


引用 ウィキペディア
オランダの過酷な植民地政策

 

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