若宮稲荷神社 巨石信仰と楠木正成の忠君愛国


若宮稲荷神社

伊良林2丁目にある、こじんまりとした奇麗な神社で、神社まで登る階段には鳥居が並びいい雰囲気である。

神社のある地域には、幕末の志士が集う亀山社中があり、坂本龍馬などの有名人が参拝に来ていたという。

若宮稲荷神社

亀山社中への道

秋には、キツネ装束の氏子が、高い竹竿で曲芸をする竹ン芸もあり、長崎の観光スポットになっている。

若宮稲荷神社 竹ン芸2013 ウィキペディア

伊良林という町名の由来は、昔、若竹稲荷のあたりに「イラクサ」がたくさん生えていたからである。

イラクサはどこにでもある草で、茎や葉にトゲがあるのでイラクサ(刺草)と名が付くが、新芽の頃は山菜として食用にされるとある。

イラクサ

現在は整備されていて、その面影はない。

由来

この地域の開発は、1600年代以降で、出来大工町乙名(おとな)・若杉喜三太が自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられている。

南北朝、楠木正成という言葉が、ひっかかる。

少し調べることにした。

文中にある乙名(おとな)とは、大人の事で、村落の代表者や指導者をさす。

若杉喜三太の事はどこにも載っていないが、武士ではない事だけはわかる。

若杉という苗字だが、愛知県(約2,600人)の次に多く、長崎県(約1,500人)とあり、長崎市の田手原町では300人いると、辞典には載っている。

若杉という苗字が一番多いのは、愛知県である。

愛知県は、西部を尾張国、東半部を三河国(みかわのくに)と言っていた地域である。

尾張国は源頼朝・織田信長・豊臣秀吉という三人の天下人を輩出、三河国といえば、徳川家康といった、スーパースターを生み出した地域である。

愛知県に若杉という苗字が多い理由は不明だが、地名にも多く使われており、杉の木から来ていると思われる。

愛知県と長崎の関係は不明だが、鎌倉時代あたりから、長崎には各地の武士団が移住している。そのつながりだと感じる。

南北朝

南北朝時代は1336年から1392年までの57年間を指す。

鎌倉時代と室町時代に挟まれる時代で、足利尊氏が光明天皇(北朝)を擁立したのに対し、後醍醐天皇(南朝)が吉野行宮に遷った時期である。

つまり日本で、万世一系の天皇家が、初めて二つに分かれた時代だった。

その時代に出てきた足利尊氏や新田義貞、楠木正成は、最初南朝側だったのだが、その後、分かれて戦う事になった。

勢力を膨らました足利尊氏軍に対して、楠木正成は、尊王という義の為に、勝ち目のない戦争をして、命を終えてしまう。

楠木正成という人物は、そんな「忠君愛国」の英雄なのである。

楠木正成

この英雄の信仰は、戦前まで続いている。

そして、神様となり、有名なのは湊川神社、楠木神社がある。

長崎県諫早市にも楠公神社はあるので、長崎市内に楠木正成を尊敬し、祀っているのは不思議ではないのである。

また、諫早市の埋津川を境にして南側は宇木城を居城とする西郷氏が南朝方に、北側は船越城を居城とする伊佐早氏が北朝方について対立していたとある。

長崎市の福田氏も南北朝の騒乱に参加していて、福田氏は大村氏と同じ南朝方の雄であった菊池氏の配下になった一族もいる。

これらの資料によると、長崎は楠木正成の南朝側だったみたいで、若宮稲荷神社が、楠木正成を祀ったというのは、当然だったともいえる。

さらに、幕末の亀山社中も、朝廷側の勤皇の志士なので、若宮稲荷に参拝したのは当然だろう。

若宮稲荷神社 境内

神社の解説

元文元年(1736)に長崎奉行・細井因幡守安明が参道を開削し、社殿を改築したのをはじめとして代々の奉行、人々の尊崇を集めてきた。現在は、毎年10月14、15日の例大祭に奉納される竹ン芸で広く知られている。

若宮稲荷神社 参道

勤皇稲荷とも呼ばれ、明治維新前後には、坂本龍馬など多くの志士達が参拝したといわれる。

若宮稲荷神社本殿まで続く葛折の参道には、約70もの鳥居がある。鳥居の中に方形(ほうけい)の珍しい鳥居がある。この鳥居は、文政5年(1822)に長崎奉行・土方出雲守が旧長崎奉行所内の稲荷に奉納したものを、明治2年(1899)に移したものだという。

祠の後ろに方形の鳥居がある

若宮という名前

若宮(わかみや)とは、皇子の幼少期の事や、本宮の祭神の子(御子神)を祀った神社と言われている。

しかし長崎の若宮稲荷神社の祭神は、稲荷大神とある。これは楠木正成が守護神としていたからだという。

うーん

楠木正成が、稲荷大神を熱烈に信仰したという話はなく、摩利支天、法華経、圓通観音菩薩、八幡神など、いろんな話がある。

ただ、信仰に厚い人物だし、出身は商人でもあるので、稲荷大神を信仰していたという話も当然あるだろう。

なので、若宮という文字は、祭神の子とか皇子の幼少期の事ではなく、最初の起こりである、若杉喜三太のお宮というところで、若宮となったのではないかと思う。

稲荷神社では、個人名をつける神社も多くあるからだ。

若宮稲荷神社

岩戸神社

若宮稲荷の後ろ側を見れは、大きい巨岩の上に神殿が建てられている。

若宮稲荷神社

若宮稲荷神社

岩戸神社

そして、その左には岩戸神社がある。

これは、神話にある天岩戸(あまのいわと)の事だろう。

長崎市内の古い神社は、巨岩信仰の神社が多い。金毘羅さんもそうだし愛宕山の愛宕神社もそうだ。

愛宕神社

なので、若宮稲荷が建てられる前に、この巨岩信仰の祠が、昔からあったのだろう。

もしかすると、岩戸神社が先にあったかもしれない。

天岩戸(あまのいわと)の話は、天照大神の話なので、天皇を崇拝する楠木正成の神社をここに持ってきたのだろう。

これで、話はすべてつながったと思う。

竹ん芸という奉納も現代まで残っていて、この地域に愛されたお稲荷さんだったのだ。

本来なら、由来通りの楠木神社でもよかったと思うのだが、長崎は天領で、幕府直轄である。

室町幕府に逆らった楠木正成の名は出しづらかったのかもしれないし、長崎は商人の町である。

となれば稲荷神社の方が座りがよかったのだろう。

若宮稲荷神社脇の川

若宮稲荷神社

若宮稲荷神社

若宮稲荷神社

若宮稲荷神社 鳥居

若宮神社の神主さんは、知人のお父さんで、初孫の写真を拝殿で撮ったことがある。

すこし、縁のある神社でもある。

 

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