釛山恵美須神社 神代の伝説と昔の稲佐の姿が残る
祭神 事代主命
飽の浦町(飽の浦神社前バス停)にある小ぶりながらも、伝説満載の立派な神社である。
新しい立て札と、銅板に文字を彫り込んだ石碑に、この神社の由来が書いている。
結構長いので、かいつまんで解説をする。
稲佐神社
最初の最初は、えびす神社でない神社がこの場所にあった。
それが稲佐神社である。稲佐神社は、渕村稲佐郷の氏神で、たぶん稲佐様と呼ばれていたと思う。
稲佐の弁財天 謎の稲佐神と原爆の爪痕
https://artworks-inter.net/2020/04/15/稲佐の弁財天%e3%80%80謎の稲佐神と原爆の爪痕/
なぜなら稲佐の弁財天でも書いたが、稲佐の氏神様は「稲佐様」だったからである。
ただこの「稲佐様」が、何者なのかは不明である。
たぶんこの稲佐山に住んでいた豪族か、稲佐の悟真寺の場所は、岩屋山の神宮寺の支房があったとされるので、その神宮寺に関係すると考えられる。
由来書には神功皇后がこの稲佐の海岸地域に泊ったとあり、その折に事代主を祀り稲佐浦の鎮護としたとある。
なぜ祭神が事代主なのか
えびす神社だから、えびす様が祭神でいいはずだけど、えびす様は仏教の神様で仏様なのである。
昔は神道と仏教はぐちゃまぜに祭っていたので、神社に仏様を祀っても、何の問題もなかったのだが、明治の初期に廃仏毀釈という、神道と仏教を明確に分ける国の方針が出たため、神社は神道の神様を祭ることになった。
そして仏教のえびす様に相当する、神道の神様を探した結果、事代主になったのである。
えびすのルーツは、イザナギ、イザナミが生んだ最初の子で、蛭子(ヒルコ)という。
蛭子とは、あのヒルのように、白くてぶよぶよした虫のような子供という意味で、最初の子が奇形児だったので、海に流したと古事記では書かれている。
しかし話はそこで終わっていない。
日本の信仰というのは面白くて、流された蛭子神が日本に流れ着いたという伝説は日本各地に残った。
『源平盛衰記』では、摂津国(現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部)に流れ着いて海を領する神となって夷三郎殿として西宮に現れた(西宮大明神)、と記している。
夷(エビス)三郎とは蛭子(ヒルコ)神の異名である。
ここにエビスが出てくる。
エビスとは、異邦の者とか外来の神を意味する言葉で、東北に住んでいた人々を蝦夷(エミシ)と呼んでいたが、ここにも夷(エビス)という字が入っている。
だが、エビスは記紀に出てこない神であるため、古くから記紀の中に該当する神を探しだす説がいろいろ出てきたのだ。
そして蛭子説と事代主神説が出てくる。
蛭子がエビスというのはわかるが、出雲の事代主命がエビスなのは不思議でもある。
エビス=事代主命になった理由だが、大国主神の使者が事代主に天津神からの国譲りの要請を受諾するかを尋ねるために訪れたとき、事代主が釣りをしていたとされることとえびすが海の神であることが結びつき、江戸時代になってから両者を同一視する説が出てきたのだ。ウィキペディア
えっと思うかもしれないが、かなり強引な同一化である。
もう一つ、事代主の父である大国主命が大黒天と習合したことにより、えびすと大黒は親子ともされる。
もともと大黒天はインドの怖い神様なのだが、大国主という文字が、大国(だいこく)とも読めるので、ここでも強引な同一化が行われたのだ。
こういうのを見ると、日本の信仰というのは、実に柔軟なんだなと考えてしまう。
悪く言えば適当なのだが、それを大真面目に説にしているのが面白い。
という事で、えびす神社では事代主命を祭神にしているのである。
余談だが、事代主は出雲の王、大国主の子供である。なので、深読みすれば、出雲には国譲り、国引きの神話で有名な稲佐の浜という場所がある。長崎の稲佐という地名が、ここから来た可能性もなくはない。
神功皇后伝説
神功皇后がこの稲佐の海岸地域に泊ったと銅板の由来書には書いている。
神功皇后伝説は、長崎にたくさん残っており、長与や神の島、皇后島、高鉾島と地名の由来にも残っている。
ただこの伝説は西九州や瀬戸内海沿岸にもたくさんあるので、各地の伝承もこじつけに近いものが多い。
稲佐の海岸に神功皇后が泊ったという由来は、やはり信用できないが、昔から港として開けていたという事にはなるだろう。
金島もしくは釛島(こがねじま)
今の稲佐地区は開発だらけで、原形をとどめていないが、「風光明媚な地」と銅板にも書いている通り、奇岩も多く観光地的な場所だったのである。
その土地の沖に小さな島があった。この島を金島もしくは釛(こがね)島と呼んでいた。
島は別名を蜉蝣(カゲロウ)島とかハダカ島、もしくは赤はげとも呼んでいたとある。名前から推測すれば、草木の無い岩島だったのだろう。
この島の下半分には黄金が埋まっているので掘るべからずという言伝えがあった。
なぜこんな伝説があったのだろうかと推測すれば、この島にはエビス様の祠があったのではないかと思う。
エビスは海の神様で航海の守り神である。長崎でも至る所にエビス像がある。
そして、七福神の中のエビスは釣竿を持ち、米俵の上に腰かけ、手には打ち出の小づちを持つという金運の神になっている。
それが言い伝えの元になっていたのでないだろうか。
後年、この場所は、貿易に関しての罪人を処刑する場所となり、伊藤小左衛門も処刑されたといわれているが、真偽は定かではない。
ただ、伊藤小左衛門の馴染みの丸山芸者が悲しんで自害したという話もあり、憐れんで稲佐の悟真寺に、比翼塚を立てている。
恵美須神社の移転
恵美須町(現・長崎中央郵便局付近)にあった恵美須神社は、寛永10年(1633)3月、小柳五郎佐衛門道長によって、この地に移転した。
おそらく、長崎市内の拡張工事のせいだろう。長崎市内にあった古い神社はこの時期に、あちこちに移転させられている。
その後は、どんどん改築され、現在の神社の形態になっていった。
神社の名前も、ただの恵美須神社ではなく、釛山という文字が入っているのは、やはりこがね島のエビスの神様も一緒に合祀したという事だろう。
享保元年(1716)、初代神官柳木大膳が五箇所商人からの寄進を受け境内を拡張し、神社として体裁を整え、諏訪神社の末社に列し、五箇所商人をはじめ多くの人の信仰を集めた。
五箇所商人とは糸割符(いとわっぷ)商法により生糸貿易を独占していた堺・長崎・京都・大坂・江戸の商人の事である。
境内にも五箇所商人が寄進した石灯篭もあり、その当時はかなり有名な神社だったと思われる。
また境内には、保食大神を祀る稲荷神社・石祠に市杵島姫神を祀る金比羅神社もあり、社殿の周りをぐるりと回れる。
金比羅神社の鳥居に、柿本という文字が加えられている。一説には平安の歌人、柿本人麻呂の事だと言われているが不明である。
ただ和歌の上達などに霊験がある存在として崇拝されており、高津柿本神社や柿本神社 (明石市)があるので、ここもそうだと思われる。
それほど大きくはないが、境内には大砲などもあり、時代を感じさせられる神社である。
ただ、目の前には巨大な三菱の工場が立ち並び、やや閉塞感もあるが、散歩の途中に境内を散策するのもいいと思う。
神社の入り口に、昔目の前が海だった証拠の波止跡石碑がある。
町は神社だけを残して、どんどん変わっていった証でもある。