時津 熊野神社 大和古信仰の火祭りの爪痕
時津の町は商業的に発展していて、時津港付近もにぎやかだが、最近は日並郷の埋立地の商業施設群がすごい。
30年ほど前は、ヤマハマリンぐらいしかなく、この場所を八工区と呼び、防波堤はちぬ釣りの釣り人が並んでいた場所だった。
そんな地域に熊野神社が二つある。
一つは日並郷の大通りから一つ山手のほうの道にある釜島の熊野神社。
そして子々川郷の中山ダムのそばにある熊野神社である。
ネットを調べても、時津の熊野神社の事は何も出てこない。
こうなると、神社内の由緒書きだけが頼りである。
まず町にある方の熊野神社である。
日並の熊野神社
御本社は和歌山県の熊野三山神社とある。
熊野三山(くまのさんざん)とは、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の3つの神社の総称。熊野三山の名前からもわかる通り、仏教的要素が強い。日本全国に約3千社ある熊野神社の総本社である。
そして、天井の木札には文政13年(1830年)に建てられたとあり、
「明治7年5月三所権現は神仏判然令(神仏分離)の布告で明治7年5月三所権現は日並郷の守護神として別に神殿を作り祭られていたのを昭和43年10月15日現在の神殿に祭られてあります。」
と書かれている。
しかし気になる部分があり、括弧して「西暦1466年」という年代が書かれていた。
これはどんな意味なんだろう。
西暦1466年は文正という元号で室町時代だ。
これは想像だが、「天井の木札」には、文正という元号が書かれていたのだが、ここの神主さんが、江戸時代の「文政」か、室町時代の「文正」か判別できなかったのでないかと思う。
だから括弧書きで書いたという事かもしれない。
江戸時代と室町時代では、時代が全然違う。
社殿の中の拝殿の上には、鬼(?)を退治している絵が描かれている。
デフォルメされた奉納絵だが、雰囲気は鎌倉武士のような気がする。なので、室町時代に最初の社殿が建てられたのかなと思う。
もう一つの時津町教育委員会の立て札が、道路沿いの一の鳥居そばに立てられている。
「もと三所権現で寛永12年(1635)村中でこれを建てた」とある。
なるほど。
今度は寛永12年(1635年は江戸時代初期)である。
最初は三所権現、つまり熊野権現を祀り、明治の廃仏毀釈で、この神社になったという事か。
祭神もいろいろ書いているが、よくあるパターンである。
熊野信仰は古くからあり、平安時代も盛んだったという。
長崎地域も平安時代に荘園があり、伊佐早(諫早)荘、彼杵荘が記録に残っている。
とすれば、伊佐早(諫早)荘に近い時津に、古くから熊野神社があってもおかしくはないのだ。
この件に関しては、いつか調べてみたい。
子々川郷の熊野神社
子々川郷の中山ダムのそばにある熊野神社の場合もほぼ同じだ。
「もとは、子々川(ししがわ)村鎮守として寛永十三年(1636年)建立の熊野大権現であった。本地は釈迦如来で木立像の彩色であったが、その仏像は今はない。
幕末の大村藩は、勤王と佐幕で対立し、騒然としていた。里人は、勤王の志しあった12代藩主 大村純煕(すみひろ)公の武運長久・息災・延命と里人の安全を願い、難儀を消除するため、明治元年(1868年)十二月、建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)・速玉之男命(はやたまのおのみこと)・事解之男命(ことさかのおのみこと)の御霊を迎え、再建したようである。」時津町教育委員会
後半の勤王の志士の話は、付け足しだろう。
子々川の熊野神社は「寛永十三年(1636年)建立」とある。江戸時代初期である。
日並の熊野神社は「寛永十二年(1635年)村中でこれを建てた」だ。
高札の文章を信じるならば、ほぼ同時期に建てられたという事になる。
教育委員会の文章は、古臭い学説を載せているものが多く信用できない。
しかし反論する資料もないので、ここもまた今後の考察としておく。
長崎の熊野神社
少し気になるのが、熊野神社は長崎市内にはない。
地図で表記したが、時津、長与、大村の海岸線、諫早、島原がほとんどである。
さて、この事に何の意味があるのだろうか。
2004年(平成16年)7月に登録されたユネスコの世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』がある。
いわゆる熊野古道だ。
『ブラタモリ』でも取り上げられていて、「なぜ熊野は日本の聖地になった?」という番組があった。
熊野神社は熊野権現と呼ばれている。
権現とは日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。
つまり、仏様なのだが神様でもある。
この考えは日本に仏教が入ってきてからの事なのだが、熊野自体はもっと古い。
古事記にも書かれているくらい古い信仰の場所なのである。
現在の神道や仏教が宗教として体系づけられる以前の、大和の信仰がこの熊野にあるといわれている。
熊野古道は霊場と呼ばれているは、その宗教の原点を感じられるからだろう。
宗教の始まりは、人間の死への恐怖からである。だから、人は未知の自然に惹かれてしまうのだろう。
大和の国に仏教が入り、神教もそれに対抗して形式を作る。その結果、人は生きている時には神に祈り、死んだ後は仏にすがる。
そして熊野は、太古からの信仰に加えて、神仏をも包み込む場所だったのだろう。
なので熊野神は各地の神社に勧請されており、熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社もあるのだろう。
熊野信仰で目立つものは、山伏の存在である。そして火を使った祭事だ。
少し怪しげで、恐ろしさも伴う雰囲気があるのだ。
子々川の熊野神社はダムのそばにあり、その社殿は作り変えられていて普通の家のような趣である。
しかしその裏手の丘には山の神の祠がある。それもまた簡単で質素なつくりである。
山の神の祠から帰りがけに右下に建物があった。
別の社殿かと思って近づいたら、入り口にしめ縄が吊り下げられていた。
それ以外には何もない。
扉をそっと開けてみると、祭壇があった。
打敷が敷かれた上に祀られている像がある。左手を上げている。右手の指は下に向けられている。
これはお釈迦様の像である。
「天上天我唯我独尊」それを現す仏像だ。となればその横は菩薩か如来だろう。
入り口にはしめ縄、そして拝殿には「お釈迦様」である。
やはり、この場所は神仏が共存する霊地だったのだ。
社殿や仏壇は質素でも、いやだからこそ、庶民の手によって存続している場所なのだと思う。
そして、昔調べた事の真実を確信したのだ。
それは
日並郷の火首・火渡・火篭の謎を解く
https://artworks-inter.net/ebook/?p=2473
である。
昔長崎新聞に日並郷にある火首・火渡・火篭という地名についての謎が提起されていた。
その謎を解いたつもりだったが、確信が持てなかった。
しかし、この子々川の熊野神社の存在は、日並(火並)の地が熊野信仰を伝えていた事の証である。
熊野那智大社の火祭、熊野本宮大社の炎の神輿、二河の火祭り等。
熊野の信仰は火で彩られている。
それは、日本に伝わったゾロアスター教(拝火教)の影響だろう。
近畿和歌山は紀ノ國という。その前は木の国である。
その地から海の道からやってきた人たちがいる。
それは大和の古信仰を受け継ぐ山伏たちだったのだろう。その者たちが熊野信仰を広めたに違いない。
熊野神社が海岸線にあるゆえんである。
長崎を昔は彼杵(そのき)といった。杵は木である。
和歌山の木の国から見れは、長崎の地は彼方(かなた)の国だ。だから彼杵という。
時津の港が持つ別の姿が推測されるのだが、何せ資料がない。
想像すれば、時津の海岸に、迎え火を並べた海岸があり、その地区を日並(火並)と呼んだ。
火の信仰を持った山伏たちは、火による祭事を行い、そのゆえんがある地域に「火首・火渡・火篭」などの名が残ったのだ。
だがこれは想像である。
何か古文書か遺跡が発見されるまで、待つしかないようである。