対馬への旅(4) 厳原町の秦氏と韓国人と朝鮮通信使

1日目の移動が終わり、夕刻6時頃に下対馬の厳原につく。

厳原(いずはら)は対馬の中心である。

対馬にはもう一つ港町があり、上対馬の比田勝(ひだかつ)という。

比田勝港は天然の良港であるが、明治初めまではほとんど開発されていなかった。

現在、対馬は韓国人観光客だらけだといわれているが、その入り口は比田勝で、韓国釜山からわずか約50キロ、船でも1時間10分しかかからない。そして旅費は7万-8万ウォン(約7000円)という。

対馬が韓国人になぜ人気なのかと言えば、その近さと安さである。

そして、気軽に日本の文化に触れることだという。

対馬に一軒だけのファミキ

その文化とは「モスバーガー」だったり、普通のスーパーや100均ダイソー、マツモトキヨシなど、日本ではおなじみの店舗が、観光スポットだ。

確かに、大型ディスカウントショップは日本の文化の一つでもある。安いし、品物は豊富で品質はある程度保証してくれる。

日本の豊かさを体現できることは間違いない。

ただ、韓国人観光客が、対馬の歴史ある神社でヒンシュクを買っているニュースがよく流れるのは不穏である。

さらに韓国人観光客のマナーについても同様で、ごみのポイ捨てから神社での落書きまで多種多様ある。

結局は文化の違いなのだが、基本的には反日教育を韓国政府が行っているので、つまりのところ日本に対しての敬意がないためだろうと思う。

私も、その事が嫌いなので対馬行を躊躇していた。だが今回コロナ禍で韓国人観光客がいないのでやってきたという経緯がある。

こう書くとヘイトとか嫌韓だとか言われるが、神社探訪の旅をしている私にとって、神社を汚されるのは我慢できないのだ。

城下町

対馬の上下を走破したが、私の興味ある神社意外だと、特別観光資源があるわけではないと感じた。

厳原町には、宗氏関係の遺跡や金石城跡、万松院等があるが、これは中世の歴史が好きではないと、それほど興味をひかないだろう。

清水山城跡

金石城跡

万松院

やはり対馬は、その極端なリアス式で生まれる風景やきれいな海の海水浴場、釣り場がメインだと思う。

厳原は城下町である。

鎌倉時代に、対馬を治める宗氏が対馬中部から厳原地区に移館して以来対馬の中心地となっている。

宗氏は12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留(あびる)氏を滅ぼし、対馬国全土を手中に収める。

その宗氏は秦氏の末裔惟宗氏(これむねうじ)の支族だといわれているが、そこのところは興味深い。

秦氏

秦氏は渡来系氏族と言われている。

神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。

そして秦の始皇帝三世直系の弓月君(ゆづきのきみ)は、秦氏の中心人物だったという。

これは古事記や日本書紀にも書かれている事である。

弓月君(ゆづきのきみ)の文字から、源氏物語のイメージがあるが、融通王ともいうとある。

古事記によれば、始皇帝の子孫という事なので、当然中国大陸からやってきたのだろう。

そして百済に住んでいた。

秦氏一族の日本書紀による帰化の経緯としては、応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏したという。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。

しかし三年が経過しても葛城襲津彦(かずらき の そつひこ)は、弓月君の民を連れて帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、大和武将が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

それが秦氏である。

少し込み入っているが、秦王朝、百済、新羅、伽耶という国が出てくる。

そんな南朝鮮だが、これらの国ができる前は辰韓と呼ばれる国があったという。

『三国志』魏書辰韓伝によれば朝鮮半島の南東部には古くから秦の亡命者が移住しており、そのため辰韓(秦韓)と呼ばれるようになったという記録がある。

辰韓(秦韓)は謎の国と言われているが、私は倭人の国と思っていた。しかし、中国と倭人の混成の可能性もあると思った。

秦の始皇帝か・・・。

始皇帝がらみだと、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)をたちを引き連れて日本にやってきた徐福(じょふく)の伝説がある。

徐福も、秦氏も大和に亡命したという事になる。

さて、どこまでが事実か不明だが、大和の国には大陸の人間が多く流れ込んでいると確実に思う。

厳原八幡宮神社

八幡宮神社

厳原の町中に、おおきな八幡宮神社、万松院、金石城跡などがある。

それなりに歴史があり、見て回ったが、私は今のところ中世の歴史に興味がそれほどわかないので写真撮影だけをする。

厳原八幡宮神社は立派な神社だった。八幡神社なので神功皇后関係が祀られている。

677年(天武天皇6年)、天武天皇の命により対馬の清水山の麓に社殿を造営して八幡神を祀ったのに始まると伝える。

そして、棟札写に「それ当社はすなわち州の男山の原廟にして万世鎮国の霊神なり」とあり、八幡信仰の中心である石清水八幡宮の起源ともいわれている。

それはそうかもしれない。三韓征伐に一番近い場所にある神社だからだ。

敷地内には境内平神社、境内宇努刀神社、境内天神神社が祀られている。この場所が聖地なので、後年いろいろと建てられたのだろう。

八幡宮神社 境内神社

八幡宮神社

厳原港と朝鮮通信使

厳原港

厳原港

厳原港を散策する。

普通の港だが、対馬らしいと言えば、朝鮮通信使の壁画や川沿いの制作物が目に付く。

近年は、韓国の釜山とを行き来する定期航路が就航しており、毎年十数万人の観光客が対馬を訪れているという。

朝鮮通信使の壁画

朝鮮通信使

朝鮮通信使に関して、教科書等は貴重な外国情報を入手する機会でもあり、外国文化に接する機会でもあったので有益だったと書かれている。

しかし、ウィキペディアでは事実上の朝貢使節としていたとある。

つまり親分(大和)の所へ子分(李氏朝鮮)がやってきたという事だ。

朝鮮通信使は室町時代から行われているが、一般的には江戸時代の事が主として語られている。

朝鮮と日本は昔から友好関係だった時はない。

室町時代の朝鮮通信使は、元寇の仕返しで、倭寇が朝鮮半島や中国に対して海賊行為を行っていた。それに対して、高麗から日本に倭寇の取り締まりを請願しに来たのが始まりだ。

江戸時代の朝鮮通信使は豊臣秀吉による文禄・慶長の役の後、断絶していた李氏朝鮮との国交を回復すべく、日本側から朝鮮側に通信使の派遣を打診したことにはじまる。

そして、その時に朝鮮からつれてこられた(やってきた)朝鮮人の返還も目的の一つだった。

何人が日本にやってきたのか正確な数字はないが、2万とも3万ともいわれている。

朝鮮通信使の請願で、第1次で約1300人が帰国した。しかし、南蛮などに奴隷として売られた者、滞在の長期化で日本に家族ができた者もおり、第3次の頃には本人が死去して子や孫の世代になっていた。ウィキペディア

ウィキペディアには「南蛮などに奴隷として売られた朝鮮人」と書かれているが、正式な資料があるわけではない。それよりも日本人の方が奴隷として南蛮に売られている事実がある。

西洋の大きな罪はこの奴隷商人の暗躍である。現在アメリカで黒人差別の騒動が起きている。この問題の解決方法は残念ながらない。

結局、朝鮮に帰国をしたのは6000人から7500人ほどとされている。

この数はかなり少ない。

原因は朝鮮半島が満州族の圧迫を受けており、李氏朝鮮自体の政情が安定していなかったことや、朝鮮半島に戻っても、軍に取られたり奴隷にされることを懸念したことも大きい。

それよりも、妻子がいて職人として働いている日本にいる事を望んだのである。

家康の謀略

朝鮮通信使のスタートの本当の理由は、室町時代に勝手に朝鮮と貿易をして力を蓄えていた大名が増えていたことに注目し、家康は先んじて、直接朝鮮と国交を回復して、他藩の出方を制する目的だった。

また最初に書いたとおり、日本は朝鮮使節を朝貢としてとらえていた。

つまり、日本で新しい将軍が誕生すると、朝鮮からお祝いを言いに来る使節扱いである。

朝鮮の思惑は、文化程度の高い日本を視察することが目的であり、日本人にしてみれば、通信使一行の行列見物は庶民にとって大きな娯楽であった。

だが、通信使一行の中には、屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする、酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す、席や屏風を割る、馬を走らせて死に至らしめる、供された食事に難癖をつける、夜具や食器を盗む、日本人下女を孕ませる。魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり、予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりといった乱暴狼藉を働くものもあった。

その結果、友好使節のつもりだったが、その文化の違いと、日本人の価値観にそぐわない朝鮮人の振る舞いが、のちの征韓論や植民地支配に繋がったとする説もある。

これはたぶん本当だろうと思う。

現代でも同じようなことが、現実に起きているからだ。

朝鮮通信使

対馬の宿命

グローバリゼーションがもてはやされてきたのだが、現在ではその崩壊が見えてきており、移民問題なども、他民族との文化や経済力の違いから起きる摩擦は、減らす事は出来ないだろう。

何事もほどほどが肝心である。経済人は儲けるためにグローバリゼーションを旗頭に、無国籍化を望んでいるのだが、それがお互いの文化にとって、いい結果をもたらさない。

まあ、商売人にこの事を言っても無駄かもしれない。

江戸時代の士農工商は、名目だけの事なのだが、商が一番下なのは、日本人の感性が最もよく表れている事だったのだ。

そんな朝鮮通信使も、対馬にしてみれば、観光資源の一つになっている。

対馬は過去、朝鮮半島からの襲撃で島民を皆殺しされたことが二度ほどある。しかし、それさえも過去の事として、朝鮮半島人を観光客として大量に受け入れ、対馬の島の存続を図っている。

たくましいとしか言いようがないと感じる。

これが、朝鮮半島と日本の間にあった対馬の宿命なのかもしれない。

厳原 ハングル語の看板

厳原 ハングル語の看板

厳原 ハングル語の看板

夜の厳原

もともとあまり飲食街がないのだが、店は7時ごろには閉まっていて、大きなスーパーと居酒屋などが入ったビルの明かりだけが煌々と輝いている。

スーパーで多すぎるほどの食料品を仕入れビジネスホテルに戻る。

撮影旅行の夜はいつもこんなもんだ。ただ対馬に来て、対馬の料理を食べないのはさすがに悲しいなと思い、夜の街をブラブラすると、派手で小さなラーメン屋が一軒だけ空いている。

どうも、そこしかないようで入ってみる。店名は京都ラーメンである。対馬で京都も悪くないかと苦笑い。

ハングルで書かれたメニューをちらりと見る。味は悪くないのだが、背脂たっぷりのコテコテ系は久しぶりだ。さすがにあんまり飲めなくて、汁をたっぷり残して店を出る。

さて一日目が終わった。

明日もハードになりそうだ。


 
対馬の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/tushima/kaisetu.html

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