対馬への旅(6) 大和神話と対馬神話の深いつながり そして旅の終わり

今回の旅の最終地点となった阿麻て留(あまてる)神社は、上対馬と下対馬の中間にある。
 

対馬の神社地図 12がアマテル

 
阿麻て留(あまてる)という文字で「て」だけがひらがななのは、漢字が表記しなかっただけで、氏名の氏の下に横棒がある字だ。
 
また、この阿麻て留(あまてる)は、現在の表記なら「天照」と書くところを、わざわざ万葉仮名で表記している日本唯一の神社である。
 

阿麻て留神社 一の鳥居

阿麻て留神社

阿麻て留神社 二の鳥居

阿麻て留神社より港が見える

阿麻て留神社 社殿

阿麻て留神社 拝殿

 
道の脇に入り口があり、一の鳥居の急な階段を上り、港が見える丘に建てられている。
 
社殿は神社らしくなく平屋の一軒家みたいで、海神神社のような荘厳さはない。
 
しかしこの神社が有名なのは、この阿麻て留(あまてる)という名前と、祀っている神様が天日神命(あめのひみたまのみこと)だという事である。
 
祀っている神様が天日神で名前がアマテルなら、日本の神話の最高神 天照大御神と同じなのだ。
 
だが、アマテルとアマテラスは違うのである。
 
さっき参拝した多久頭魂神社の境内社に高御魂神社というのがあった。
 

多久頭魂神社の高御魂神社

 
この高御魂もまた、日本神話の高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、またの名を高木神(たかぎのかみ)と言い、瓊瓊杵尊の天孫降臨の際に、天照大御神にアドバイスをした神様である。
 
つまり対馬には、古事記に登場する日本神話の神様がほとんどいるのである。
 
天童伝説、高木神、天照大御神、海神(わだつみ)、天神(天神多久頭魂神社)など、古事記の元ネタと言っていいくらい、豊富なキャラクターが満載なのだ。
 
さらに対馬の神社が重要なのは、式内社(しきないしゃ)が、大和内1位で29社あるという事である。ちなみに壱岐には2位の24社ある。
 
式内社とは大和朝廷が決めた祭祀に必要な神社だという事である。
 
なぜ大和朝廷の祭祀に、対馬の神社との壱岐の神社が最重要とされているかというと、占い発祥の地とされているからだ。
 
対馬の占いは、亀の甲羅を焼いて占うもので、対馬では占いをする技術が世襲されている。
 

占い(卜部)

 
卜部と書いて「うらべ」と読む。占部・浦部・浦邊とも書き、古代の祭祀貴族である。
 
古代、占いは政治の方向性を決める重要な儀式だった。
 
古代ギリシャや古代ローマでも行われていたし、中国の王朝 殷(商)の占いによって出来たひび割れが、漢字の大元になったことは有名である(甲骨文字)。
 
占いは未来予測である。現代でいえばシュミレーションだろうか。
 
しかし、現代といえども、科学的素地があるはずなのに、地震や水害など当たったためしがない。
 
特に地震など、科学者は予測できるようなことを言い、莫大な国家予算が投じられているが、すべて無駄である。
 
所詮、未来は不明であり、未来を知るにはタイムマシンができない限り不可能なのだ。
 
これは、古代も同じだったのだが、為政者が、決定事項に責任を負わないために、占いに意思決定を任した事にしていたと思われる。
 
そして時には、占い方法に細工して、為政者の都合のいいような占いをしていた形跡が多いといわれている。
 
そんな占いの起源が古い対馬、壱岐が重要視されていたのである。
 
そして大和が、大和の神々を文章化(古事記、日本書紀)したとき、対馬の神々を大和の神々に置き換えて神話を作ったのだ。
 
しかし、大和も対馬、壱岐を重要視している。
 
なぜなら、国生み神話の時、5番目に壱岐、6番目に対馬が登場しているからだ。
 

韓国とは関係のない対馬の神々

 
それなら、対馬の神々は自然発生したのか、どこからかやって来たのかが重要になってくる。
 
これまで学者たちの中には、朝鮮半島が高天原だとか、朝鮮半島から天皇はやって来たなどという学説をまき散らしていた。
 
だが、いろんな遺跡や、稲作の起源、DNAなどが科学的に解明されてきて様相は変わってきている。
 
それなら朝鮮半島には古代、どんな民族が住んでいたのかと言えば、倭人と中国大陸の人間たちだとされている。
 
歴史書に出てくる、衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年)は中国人亡命者の衛満が今の朝鮮半島北部に建国した国だ。
 
それ以前は神話で書かれているだけで、誰が住んでいたのか不明である。
 
また、古代朝鮮半島南部には辰国(しんこく)があったとされているが、国名だけがあり人種や規模は不明である。
 

辰国の位置

 
現在の韓国の元は李氏朝鮮と言い1392年建国で、その前が高麗、高句麗(紀元前1世紀頃から668年)である。
 
いずれも朝鮮半島北部に建国されている。
 
その高句麗時代には好太王碑があり、碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、399年にはすでに、倭と高句麗は敵対関係にあったのである。
 

好太王碑 写し

日本書紀の神功皇后による、三韓征伐もこの事により、信ぴょう性を増している。
 
日本の弥生時代は、国立歴史民俗博物館の、放射性炭素年代測定により紀元前10世紀くらいからと言われている。
 
この時代から稲作がスタートしたとされるが、この時代の朝鮮半島は箕子朝鮮(きしちょうせん)が北部に建国している。
 
箕子朝鮮は中国人の国であり、朝鮮半島南部には謎の辰国があったとされている。
 
謎の辰国の事がもっとわかれば、倭国と朝鮮島半島の関係がわかるのだが、『史記』や『漢書』の朝鮮伝にしか載っておらず残念である。
 
しかし、現在の韓国の学界などは、朝鮮民族の国だと言い張っているようだ。だが現在の韓国人の祖先とされる扶余は、ずっと北の満州あたりにある。
 
なので、韓国の歴史と古代の対馬は全く関係がない。
 
先日読んだ、司馬遼太郎氏の「壱岐対馬への道」にも、韓国との関係をほのめかす文章が多くあり、首をかしげながら読んだのである。
 

外国の影響

 
だが、対馬の神々が自然発祥かと言えば、天童伝説ではうつろ船に乗ってやって来たなどの記載があるので、親潮(対馬海流)の潮の道からやったともいえるのだ。
 
占いも、中国王朝の影響があると思えるので、対馬の神々の成り立ちも影響を受けたのだろう。
 
ただ、大和朝廷の歴史を見ても、中国の影響を強く受けていても、取り入れるところと、取り入れなかったところがはっきりとある。
 
なので、大和人の取捨選択の妙も、大いに考えなければならない。
 
しかし古代より、対馬は国境の島であったことは間違いなく、他国との緊張関係は常にあったのである。
 
そして、そこから生まれた対馬の伝説はやはり興味深いのである。
 

旅の終わりに

 
対馬に行く前に書き留めていた神社以外に、道の途中の神社や自然施設にもよった。
 

鮎もどし自然公園

太田崎海岸

 
鮎もどし自然公園や太田崎海岸などは、対馬の自然を感じた。
 

乙和多都美神社

嶋大國魂御子神

山形社

十王社

白髭神社

國本神社

池神社

道すがら見つけた神社は、乙和多都美神社、嶋大國魂御子神社、山形社、十王社、白髭神社、國本神社、池神社であり、ここも参拝をする。
 
帰りの飛行機は、大雨の為欠航するかどうかの瀬戸際だったりと、最後までハラハラさせられたことも思い出である。
 

大雨の対馬空港

 
長年の思いだった対馬に来てよかったと思う。
 
回った神社も、すべてが見栄えが良かったわけではない。
 
なかにはこれがそうかと思った社も多い。
 
だが、自分の足でそこまで行き、風と光と雰囲気を感じ、写真を撮ったことは私の中に深く刻まれている。
 
古代史を学ぶ際、大切なのはなるべく現地に行くことだと思っている。普段はインターネットと本に埋もれているのだが、実際に行けば、やはり考え方が変わるのである。
 
さて私の命が尽きるまでに、どれだけの場所を訪れることができるのだろうか。
 
雨の大村空港を後にして、長崎の帰路につく時、次に行く場所を考えている。
 
それが生きる糧になってしまったことを感じた。
 

 
対馬の写真素材 アートワークスフリーフォト
http://freephoto.artworks-inter.net/tushima/kaisetu.html
 

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