時津三十番神社 神仏習合の神と長崎甚左衛門
〒851-2101 長崎県西彼杵郡時津町
長与港と時津港の中間にある小山のふもとにある。今回は長与港から海沿いをぐるりと回ってたどり着いた。この辺りは西時津といい、きれいに整備された街である。
ここには昔の思い出がある。長与港と時津港の間にある崎野自然公園だ。
大昔、子供たちが保育園時代に家族でキャンプに出掛けた。わたしがキャンプ好きなので、いつかみんなで行く準備として、子供たちを近場のキャンプ場で慣らしとこうと思ったからである。確かバンガローを借りて、バーベキューをしたと思う。
その時の海と森の姿は変わっていない。しかし町並みは見違えるようだ。多分今後も発展していく地域である。
さて、三十番神社へ行く途中、公園に立派な明神鳥居が建てられているのを発見した。
鳥居の神額には「大神宮」とある。管理は三十番神社氏子総代と立て札にひらがなで書かれている。
建てられたのが平成14年と書かれているので、新しい神社だ。おそらく昔からこの地にあったのを建て替えたのだろう。
やや唐突感があり、少し驚いたが、町を整備する際でも、昔からの祠を残しているのは、町の歴史のためにも大切なことだと思う。
この大神宮の近くに三十番神社があるのだ。つまり昔この地域は霊的な場所だったという事なのである。
神仏習合
近くの道沿いの奥に三十番神社はあった。
急な石段を上ると古い建物が鎮座している。神社形式ではないが、ちゃんと鈴もある。
左手には地蔵群があるので、昔は神仏習合の神社だったのだろう。
拝殿を見さしていただいたが、きれいに掃除されていてお祭りやお祓いもあるようである。
神殿は二つあるようで、中央は日天子、月天子、明星天子と書かれている。右側の神殿は鬼子母神のようだ。
まさに神仏習合の信仰である。
一の鳥居の左手に立て札があり、三十番神の説明があった。
この神社のご神体の説明があったが、神社でご神体というのも不思議なことである。神道は偶像を作らず、ご神体は通常鏡だからだ。
三十番神(さんじゅうばんしん)は、神仏習合の信仰で、毎日交替で国家や国民などを守護するとされた30柱の神々のことである。
長崎に三十番神という信仰があるのを初めて知った。
天台宗から日蓮宗に伝わり、鬼子母神信仰と合わせて信仰されているという。鎌倉時代には盛んに信仰されたが、明治政府の神仏分離政策のため配祠を禁じられたとある。
この神社の祭神は日天子、月天子、明星天子とあるが、これは天照、月読、スサノオの事なんだろう。
やはり不思議である。
現在は神道と仏教は完全に分かれているが、これは明治時代の政教分離のせいで、それ以前はごちゃまぜだった。
日本は特殊で、いろんな宗教を分け隔てしていない。そしてうまくブレンドしていく。
そのベースになるのは、自然信仰だ。その信仰には教義はないので、神道や仏教の教義を借りて、形式としているだけである。
なので神様が主だったり、仏さまが主だったりする。それでも争いはほとんどなかった。
まあ日蓮宗やキリスト教を信じる人たちは、とがっていて回りと軋轢を生むのだが、これもやはり淘汰されしまう歴史がある。
明治時代の神仏混合の禁止令が出たにもかかわらず、この形式が残っているということは、この場所が昔は開発されていない山の中だったという事になる。
神仏習合がしっかり残っている長崎の神社は数が少ないので、かなり貴重な神社だと思う。
長崎甚左衛門
鳥居の横の立て札には、1637年妙法寺の勧請で大村内匠が建立したとある。
大村内匠とは大村藩家老で、長崎甚左衛門の子孫である。
長崎甚左衛門は、長崎夫婦川町付近にあったの鶴城(かくじょう)の城主だった。
よく知られている長崎の施政者である。
だが長崎甚左衛門一人で長崎全体を治めていたわけではなく、いろんな武将がいて、争いが続いていた戦国時代の話である。
長崎甚左衛門は大村藩大村純忠の家来なので、いつしかキリシタン信者になっている。
そして、大村純忠がイエズス会に長崎甚左衛門の領地を差し出すという強引な手法をとる。。
大村純忠は家来である長崎甚左衛門の土地をキリシタンに与えたので、その代替え地として時津を与えようとしたのだが、長崎甚左衛門はそれを受け取らず、各地を流転後、柳河藩主の田中吉政氏に仕えたとある。
なぜ受け取らなかったのだろう。
推測だが、強引な大村純忠のやり方に、信頼関係が失せたのかもしれない。
結局、田中吉政氏は子供ができず家が途絶えてしまったので、甚左衛門は実弟の居る大村藩に戻り、100石で仕えている。
そして1622年時津にて没した。
1637年、長崎甚左衛門の子孫の大村内匠はこの三十番神社をたてたのだ。
さらに大村内匠は1702年に時津町浜田郷小島田の地に純景夫妻の墓碑を立てている。

長崎甚左衛門の墓《小島田》 https://www.town.togitsu.nagasaki.jp/kanko_sangyo_event/kanko/rekishi_dentobunka/2263.html
墓碑を建てる時期がかなり後年だが、それ以前にもそこには墓はあったのだろう。
長崎甚左衛門と三十番神社
長崎甚左衛門の墓と三十番神社の場所を見れば、ほぼ真北にある。
開発が行われていない昔は、長崎甚左衛門の墓から三十番神社の場所が見えたのかもしれない。
これは何を意味しているのだろうか。
まず、長崎甚左衛門はキリスト教を最後まで信仰していたのかという謎がある。
長崎の地を離れ、転々とした生活を見れば、キリスト教と縁を切ったように見える。
しかし最後は大村に戻っている。
そして、子孫の大村内匠がこの神仏習合の神社を、長崎甚左衛門の墓から見える位置に立てている。
この三十番神社の祭神だが、メインは日天子、月天子、明星天子だ。
日天子とはイエスキリストを匂わせる名前である。
ここからは想像だが、長崎甚左衛門は信仰を捨てていなかったのだろう。
世間はキリスト教禁教なので、隠れキリシタンとなった。身内の人々はその事を知っていたのかもしれない。
なので長崎甚左衛門の供養の為に、神仏習合で日天子の名前のある神社をそっと作ったのではないだろうか。
これはあくまでも妄想である。
三十番神社を長崎甚左衛門の為に作ったという記録はないし、たまたま長崎甚左衛門の墓と直線で結ばれているのかもしれない。
だが、三十番神社という珍しい神社を建てたという事に関して、勘ぐってしまったのである。
大村藩は1657年に、城下北部の郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるに至った。「郡崩れ」と呼ばれるこの事件は、キリスト教禁教令より45年を経過した後のことであり、藩の存亡を揺るがす重大事件となった。
しかし、藩主の実父伊丹勝長を通じ、幕府に対し即座に事件の実情報告を行い恭順したため、咎を受けなかった。これ以後、キリシタンへの徹底した予防と探索を行い、領民に対し仏教・神道への信仰を強化したとある。
しかし、しかしである。
信仰は苦難であるほど、深まるという。
長崎甚左衛門の子孫だという大村内匠がどんな人物だか不明だが、神社を建てたり、墓を建てたりしている信仰深い人物のようである。
宗派は違えど、優しい心根の人物だったとすれば、祖先の為に何か考えていたのではないかと思うのだ。
さて、この推理は当たっているだろうか。
一休みして、この神社を去る。