長崎開港以前の歴史と長崎の武士団たち
日本の歴史の中で、武士政権の誕生はとても大きい。
もちろん平安時代にも武士はいたのだが、源平の争い以後、鎌倉幕府(1185年~1333年)が誕生する。
この時代には、朝鮮半島経由からの襲撃が相次いでいる。
有名なのは、1019年刀伊の入寇(といのにゅうこう)で満洲民族の一派とみられる集団を主体にした海賊が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻した事件だ。
それ以外、記録に残るだけでも9世紀から11世紀にかけて、筑前・筑後・肥前・肥後・薩摩の九州沿岸は襲撃・略奪を数十回受けている。
襲ってきたのは女真族(満州族)が主だとされているが、高麗、新羅も含まれていると言われている。
そして最大なのが、中国モンゴル王朝の元による元寇である。
文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)はあまりにも有名だが、日本にとって、最強の武士政権が誕生していたのが不幸中の幸いだった。
この防衛戦に日本は勝利したが、これにより、九州の各地に関東の武士軍団が流れ込んでいる。
中世時代に起こった長崎再構成
大和朝廷が日本に誕生して、日本中が統一されると、朝廷貴族が日本を支配するようになる。
長崎にも当然その痕跡があり、東彼杵のひさご塚とよばれる前方後円墳や、雲仙吾妻町の守山大塚古墳(前方後円墳)がそうである。
さらに壱岐対馬、平戸にも古墳は存在していて、長崎での大和政権の浸透がよくわかる。
そして646年白村江の戦いがあり、唐・新羅に日本は大敗している。そこで大和朝廷は「防人」というシステムを作り、九州沿岸の警備を固めたのだ。
この防人は、関東から呼ばれた人たちが主になっているので、九州に東国文化が流れ込んでいる。これが最初の異文化流入である。
それ以降、飛鳥、奈良、平安時代と大和朝廷時代が続く。
最初の支配は土蜘蛛の姫たち
6世紀以前の長崎は、地方豪族支配だった。
多分土蜘蛛と呼ばれた、反大和側の集団だったのだろう。
肥前国風土記にはそれらの記述がある。
長崎県佐世保市早岐(はいき)にいた速来津姫(ハヤキツヒメ)、場所は不明だが浮穴(うきあな)の郷の浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)たちが、長崎の豪族の首長だったとされている。
ともに女性なのが興味深いが、邪馬台国の首長も卑弥呼という女性なので、古代長崎もその影響を受けていたと思われる。
朝廷貴族支配
最初、大和朝廷が行ったのは、班田収授(農地の支給・収容)や戸籍などの制度である。
これにより、大和朝廷が認めた貴族や一般人には土地が支給されることになり、租(そ)といわれる税金も徴収されるシステムが出来上がった。
この農地だが、制度の紆余曲折があったが、最終的には墾田永年私財法(743年)が発令される。
この法律は、開墾すればすべて自分の土地になるというものだ。
この事により金持ちの中央貴族・大寺社・地方の富豪は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなった。
これが荘園である。
長崎は彼杵荘で、藤原家の流れをくむ京都の有力公家の九条家領とされている。
詳しい内容は後年の記録なので、7~10世紀の荘園事情はよくわかっていない。
ただ荘園は農地なので、現在の長崎市内は彼杵荘には入っていないと思われる。
そんな時代に記録があるのが丹治比(たじひ)氏である。
丹治比(たじひ)の書き方は様々で、多治氏・丹治氏(たじし)多治比氏とも書く。
系図で調べると、多治比古王にたどり着き、この氏がどんな人物かは不明だが、貴族であることは間違いない。
その流れをくむのが長崎氏をはじめとする長崎の豪族たちである。
この丹治一族には、額田王の親戚があり、彼らは「威奈(いな)氏」に続くという。
長崎の稲佐氏の出自は不明なのだが、「威奈(いな)氏」が稲佐氏の始まりかとも思う。
長崎の武士団
本格的に長崎に武士団がやってきたのは、やはり鎌倉時代前後だ。
武家政権は貴族の荘園を取り上げ、功あった武士たちに与えていったのである。
まず、平安時代末期(1180年)に福田氏がやってくる。
そして、1221年深堀氏が戸町にやってきた。
なぜ西の果ての長崎が武士の恩賞移転先だったかというと、長崎は中国貿易が盛んだったからである。
昔から貿易に関しての利権は存在していたのだ。
長崎と関係があると言われている長崎小太郎はこの時代にやってきたという記録がある。
「長崎実記」には1186年長崎小太郎が長崎にやってきたとあり、「長崎氏系譜」、「長崎略縁起評」、「新選士系録」には長崎小太郎重綱という武士が、1223年頃、彼杵荘に下向したとある。
しかし、これもまた後付けの可能性が高い。
そして、長崎の地名とつながる武士たちがほぼ勢ぞろいをしたといえるだろう。
長崎氏、浦上氏、深堀氏、戸町氏、福田氏、矢上氏、樒(式見)氏、長崎 古賀(閑)氏、稲佐氏 等である。
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この時代から、豊臣秀吉のキリシタン禁止令、徳川幕府の鎖国とつながっていく。
よく思うのだが、昔学校で習ったのは、この時代の話からだ。
いわゆる長崎開港から歴史のお勉強は始まっている。
しかし、それ以前の長崎もしっかり存在している。
学校で縄文から始まっている長崎の郷土史を教えてほしいと切に願う。
そうすれば、地元の愛着も深くなり、長崎を大切にしたいともっと思うのではないだろうか。