飯盛神社と英彦山神社 長崎天狗たちの本拠地
長崎市本河内町406
本河内水源地付近の山側から彦山(386m)に登ると、途中に豊前坊や岩倉大明神があり、さらに上ると飯盛山の飯盛神社に到着する。
最後の石段の入り口に、立派な石の鳥居があり、その左にはブロックで囲まれた旭稲荷大明神という祠がある。
参道を上がれば拝殿がある。神社様式ではないが拝殿の中を見れば神社である。
隣に三十番神、またその隣には豊前坊神社と彫られた大きな石碑がある。さらに左側には荒田不動、波切不動と書かれた神額がかかっている鳥居があり、石垣の上に大ぶりの祠がある。
まさに神仏習合の神社である。
由来
飯盛神社の由来書が立てられていて、祭神は天火明命(あめのほあかりのみこと)、大日ひる貴命(おおひるめのむちのみこと)、火進命(ひすせりのみこと)と書かれている。
天火明命とは、天照大神の子供と高木神の娘の間にできた子供で、この神様の子孫を天孫族という。
地上に降りた、天照大神の孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は弟になるのだが、別の所では父となっている。
不思議である。
大日ひる貴命は天照大神で、火進命は、日本書紀では、火闌降(ホノソスリ)命、古事記では火須勢理(ホスセリ)の命と書かれていて、瓊々杵尊と木花開耶姫の子である。
それぞれに逸話があるが、この三柱を整理すれば、天孫族の血のつながりのある神様だ。
天狗と修験道
飯盛神社の由緒は、元和元年(1615年)、天台宗の修験者が彦山の頂上へ本覚寺を建て彦山大権現を祀り、豊前国彦山の末寺とした。
その後彦山の脇にある、飯盛山に豊前坊を勧請する。それによりこの神社は豊前坊神社と呼ばれるようになったとある。
豊前坊とは天狗である。
豊前坊は配下の天狗を使って、欲深い者に対しては子供を攫ったり家に火を付けたりして罰を与え、心正しき者には願い事を聞き届けたり身辺を守護したりするとされている。
うーん。
まずこの神社と彦山の神社は、元は本覚寺というお寺だったのだ。
大元の豊前英彦山(ひこさん)も最初は彦山と呼ばれていた。この山は日本三大修験山と呼ばれていて、山伏の修験道場だったのである。
という事は、長崎の彦山も山伏たちの鍛錬場だった可能性がある。
そういえば、長崎がキリスト教の町になった時、修験者といざこざがあったと書かれていた。
もしかしたら、その喧嘩相手は彦山の修験者たちだったかも知れない。
この飯盛神社の境内には、なでると万病に効くと言われている蛤(はまぐり)石とか、かつて力士が力試しをしたという両国関初土俵力験之石があったという。
修験道は神道と仏教の混ぜ合わせで、信者は超能力を得るために修行し、なおかつ武闘派だった。
なので、不思議な言い伝えはたくさんあるのだ。
飯盛神社は、受験、進学に御利益があるとされるが、祀られている神様をみても、学問の神様らしき神はいない。
しかし、神通力で受験に通るのかもしれない。
彦山神社
飯盛神社を下り、横道を行くと英彦山神社の鳥居がある。
かなり険しい道を結構登る。
参道に倒木があり、くぐって進む。
英彦山神社の参道の石段
飯盛神社がちゃんとしていたので、英彦山神社は少し拍子抜けをする。
もう少し整備をしてくれたらと思う。
裏手の細い道を進むと、テレビ塔の金網が続く。
途中に小さな岩場があり、そこから茂木方面の景色が広がっていた。
奥へ進むとテレビ塔の建物があり、その先を行くと彦山という立て札があり、その先に長崎港を見渡せる場所につく。
信仰のパラレルワールド
飯盛神社と彦山には神道と仏教、さらに摩訶不思議な修験道が入り混じり、混とんとした世界観がある。
しかし、それは現代の私たちの世界が、神道と仏教がはっきり分かれているからそう思うのであり、昔はこちゃまぜの信仰が当たり前だったのである。
彦山に上る途中、岩倉大明神という祠があった。鳥居は少しみすぼらしかったが、ご神体は巨大な岩で、拝殿もその岩に埋めて建てられている。
敷地内にも祠があり、昔はそれなりにちゃんとした神社だったのではないだろうか。
神殿にはお稲荷さんが祀られていたたが、最初はどうだったか不明だと思った。
名前の岩倉大明神だが、この岩倉は磐座(いわくら)だったと思う。
見た目通り、岩を信仰の対象していて、古代の自然崇拝そのものだからである。
これもまた、彦山のパラレルワールドの一つだろう。