若い時は外側ばかり目が行って、自分の住んでいる場所の事をほとんど知らなかった。これはよくある話。
 
ある程度経験を積み、子供たちに故郷の事を語る時が来ると、自分の無知さを痛感してしまう。
 
そこで、簡単に子供たちに話せる地名の理由を調べてみた。
 

長崎市の名前

長崎甚左衛門像

長崎という名前の由来だが、長崎甚左衛門(長崎純景)がいたからという説がある。
 
長崎 純景(ながさき すみかげ)が長崎という姓だったのは、おじいちゃんの有馬康純(やすずみ)が長崎氏の養子に入りしたからである。
 
有馬と言えば島原で、戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前国一帯に一大勢力を広げ、キリスト教にも手を出し、大いに勢力を拡大した殿様だ。だから長崎甚左衛門は島原出身である。
 
それでは最初から長崎に居た長崎氏は、どこから来たのかと言えばウィキペディアでは鎌倉時代の北条氏得宗家の御内人だったとある。間違いではなく長崎という姓を名乗る武家は沢山いたのである。
 
このウィキペディアの長崎氏は伊豆国田方郡長崎郷(静岡県伊豆の国市)の場所に行ったので長崎氏を名乗っただけである。
 
そしてその子孫が九州に来て長崎の地名の元になったという説を展開している。
 
九州に武士団の大移動が起きたのは元寇のあった鎌倉時代で、その時代は貴族の荘園制度を幕府は取り崩していった。
 
なので長崎全体は荘園から来た名前で、ほとんどが彼杵荘とよばれ、あと伊佐早(諫早)荘があったくらいである。
 
それでは肝心の長崎は何と呼ばれていたかというと、伊佐早(諫早)荘の一部だった。
 
地方に散らばった武士たちは、自分たちがいかにえらい一族だったかを嘘や想像を交えてその出自を書き綴っているので、あんまり信用しない方がいい。
 
そんな由来説よりも、長崎は古代より永埼浦(長崎浦)と呼ばれていたことを重視したほうがいい。
 

子供たちに話す事

昔は土蜘蛛と呼ばれていた豪族が住んでいたんだけど、その後はいろんな貴族や武士たちが住み着いていて、最初は諫早の土地で、そのあと大村藩の所領になった。
 
長崎の県庁あたりが、長い岬だったから長崎と呼ばれていて、その場所を治めていた武士が長崎氏という武将になった。
 
大村の殿様が、子分の長崎氏が治めていた場所をキリスト教に差し出して、長崎はキリスト教の町になった。
 

開港以前の長崎の岬

諫早市

昔は「伊佐早」と呼ばれていたが、中世には「いさはい」の読みもある。龍造寺氏が領主のとき諫早姓を名乗り、地名となっている。
 
今は諫早干拓堤防問題で日本中に知られているが、古代はとても重要な場所だったのだ。
 
大和朝廷が日本に根付き、天皇の一族である貴族たちが平安時代を作る。
 
その時代に長崎は彼杵荘と諫早荘に分かれて治められていた。諫早荘の広さは、諫早地域以外に小長井町、飯盛町、長崎市、野母崎町を含んでいるとされる。
 
なので長崎は諫早荘の一部だったのだ。
 
諫早の事が書かれているのは、なんと大分の宇佐神宮の宇佐大鏡(宇佐神宮の歴史書)に伊佐早村の事が書かれている。
 
宇佐神宮は古代日本の重要な神社で、まず天皇家から尊敬されていて、坊主の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が、天皇位を得ようとした事件を阻止したことで有名だ。他には、全国にある八幡様の元締めで、不思議なことに参拝は二拝四拍手一拝である。
 
そんな知名度の高い宇佐神宮の僧侶に、地主が諫早荘を寄付されたことから、その所領はいろんな人たちの間で転々としていく。
 
そして、戦国時代、北九州まで勢力を伸ばし、大分の大友家をも圧倒するほどだった武闘派の一族である佐賀の龍造寺が力でもぎ取ったのだ。
 
「いさはや」は平安時代から伊佐早と呼ばれていたことがわかるのだが、地名の意味が不明である。
 
伊佐早地域は現在の長崎市なので、諫早平野と有明海、橘湾、長崎海域を含む。
 
諫早平野もあるが、やはり海の幸がたくさんとれたのだろう。
 
「いさはや」の「いさ」だが鹿児島県、茨木県、山口県、沖縄に「伊佐」という地名があるし、伊佐氏(いさし)もいる。
 
また「いさ・ご」とは砂浜という意味で「いさ・な」はクジラの事を言う。
 
想像はできるが確証は何一つない。
 

子供たちに話す事

諫早は、昔荘園という平安貴族の持ち物で「伊佐早荘(いさはやしょう)」と呼ばれていて、長崎も含んでいた広い場所だった。
 
だけど、佐賀の龍造寺という武士団が占領して、その時から「諫早」という漢字になった。
 
なぜ諫早という地名になったのは不明だけど、人の名前か、クジラに関係しているかも。
 

龍造寺隆信

 

大村市

長崎空港は大村市の海上にある。なので、他県から長崎に飛行機で来ると、バスで約50分くらいで長崎市に着く。
 
大村という名前は大村藩からきているというのが答えである。
 
それでは大村藩の前はどうだったかと言えば彼杵(そのき)だった。
 
東彼杵町という町には長崎県最大級の「ひさご塚古墳(前方後円墳)」があり、弥生時代から大村湾沿いに発展している。
 
平安時代の和名抄に郡地区が「大村郷」と書かれているので、大村藩だから大村ではなく、大村郷を所領にしていたので大村家としたのだろう。
 
意味は当然大きな村という意味だと思われる。
 
大村藩の起源は、言い伝えによると藤原氏の遠縁にあたる藤原直純が900年代前後に東彼杵荘大村に入り、久原(大村市久原町)に屋敷を建てて定住したのが始まりとある。
 
弱小藩だった大村家は16代領主の時、島原の有馬氏に敗北。所領を失っている。だがその後北九州地方の豪族の手を借り旧領を回復している。
 
有名なのは18代領主大村純忠で、彼は日本初のキリシタン大名となったのは有名。
 
その後、家来の長崎をキリシタンに差し出して、長崎の運命は大きく変わってしまったという歴史的事実は大変興味深いものがある。
 
地名の由来よりそっちの方が面白いだろう。
 

大村藩

 

子供たちに話す事

大村は大きい村だから大村と呼ばれていた。そこに武士がやってきて、大村に住んだので、大村家と名前を付けて、それが大村藩となった。大村藩は長崎も治めていた。
 

佐世保市

佐世保は(させぼ)と読む。
 
現在、長崎県では長崎市に次いで2番目、九州では9番目に多い人口を擁する。
 
地名の由来について諸説ある。
 
1.佐世保には「サセブ」と呼ばれる木が繁茂していたから。
 
「サセブ」とはシャシャンボという木の事である。7月頃に白色の壺状の花が咲く。果実は小さい球形の液果で黒紫色に熟し、同属のブルーベリー類と同じように食べることができる。漢字表記では「小小坊」と書くがこれは当て字で、シャシャンボの実際の語源は古語の「さしぶ」が訛ったものでる。
 
2.佐世保は「佐世」と「保」の結合地名で、佐世保の「世」は古訓で「シ」である。佐世は「サシ」で「瀬」をさし、「サシ」から「サセ」に転訛したもの。「保」は地団が地名化したもの。
 
文字を分解しての成り立ちは、正しいのか間違っているのかの判断がつきにくい。
 
これに似ているのに、「サ(狭い)」+「セ(瀬)」+「ホ(小平地)」で、狭い瀬がある小平地の意味と全駅ルーツ事典 にあり、「サ(接頭語)」+「セ(狭)」+「ホ(高くなった所)」で、幅の狭い山稜のこと。あるいは「ホ」は接頭語で、海沿いの狭い平地のことか市町村名語源辞典にはある。
 
3.佐世保川沿いの狭い谷間「狭瀬」に村があることから「狭瀬保」となり、これが「佐世保」になった。
 
うーん。グーグルで調べても「狭瀬」はなかった。ネットには広瀬という名字があるなら「狭瀬」もあるのではとあるが、苗字由来ネットで調べてもなかった。
 
4.大宝令で「五家を以て保となす」と定めた当時、ここらあたりに、5、6軒の家があったので、近くの佐世の名をつけて「佐世保」となった。
 
5.アイヌ語で「サ」は広いという意味、「セブ」は谷という意味で「サセブ」から「サセボ」に転訛したもの。
 
6.神功皇后の三韓征伐のとき、途中で風のために船の帆が裂けたので修理のため佐世保港に寄られた。それが「サケホ」と呼ぶようになり、それが「サセボ」に転訛した。
 
7.中世の豪族の差布(さしぶ)氏に由来する。差布氏は後の佐世保氏。
 
どれが当たっているかわからない。
 
現在の佐世保市域は、古代中世には肥前国に属し松浦郡と彼杵郡にあたっている。
 
肥前国風土記によれば、現在の早岐付近に速来津姫をいただく土蜘蛛と呼ばれる土着豪族があり、景行天皇の命により討伐されたという記述がある。
 
平安時代の松浦郡相浦、中里、竹辺地域には武辺胤明と初期松浦一族の相神浦氏の存在が見られる。
 
鎌倉時代になると松浦党が北松浦半島周辺に勢力を広げ、室町時代になると本家にあたる宗家松浦氏が相浦付近に武辺城を築いて一帯を支配した。
 

松浦党分布図 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/matu_zu.html

 
やはり松浦党の支配地域だ。
 
松浦党同族のうち現在の市域中心部に拠った者が佐世保城を築き、佐世保姓を名乗った。古文書には佐世保城主として「佐世保清」「佐世保諫」等の名が残っている。
 
という事は、佐世保というのは地名由来という事になる。
 
明治時代に入ると海軍において九州西部に軍港の建設が求められ、当時人口千人余りの寒村だった東彼杵郡佐世保村が適地とされる。
 
つまり、軍港として佐世保が選ばれ、それが市の名前になったのである。
 
佐世保市の沿革を見れば、佐世保村が市制施行し、佐世保市となる。
 
同時に佐世保村の北部(横尾免、山中免、熊ヶ倉免のそれぞれ全域、および折橋免のうち字山ノ田)を分離し、東彼杵郡佐世村が発足とある。
 
これを読めば、佐世保と佐世があったのである。となれば佐世保は「佐世+保」と分解できる。
 
つまり
 
4.大宝令で「五家を以て保となす」と定めた当時、ここらあたりに、5、6軒の家があったので、近くの佐世の名をつけて「佐世保」となった。
 
というのが正しいような気がする。
 
佐世という名には佐世氏(させし)という出雲源氏の武将も居て、佐世城もあったという。
 
佐世保市一帯を仕切っていた松浦党は、豪族同盟の組織で、松浦一族は、その居住した地域が多島海沿岸であったことと、朝鮮半島、中国大陸と貿易していたことから、水軍もしくは海賊としてのイメージが定着している。
 
特に13世紀の元寇の時には佐志氏や山代氏をはじめ活躍したことで知られ、肥前国松浦郡で蒙古軍と戦った佐志房と三人の息子は揃って戦死している。
 
佐志 房(さし ふさし)は肥前国松浦郡佐志村の地頭だった。
 
佐世、佐志の武将名から佐世保の「させ」は付いたような気がする。
 
さてどうだろうか。
 

子供たちに話す事

佐世保は松浦党という武士団がいたんだけど、その中に佐世という武士がいて、集まって暮らしていたので佐世保というようになった。
 
明治時代になって小さかった佐世保村が軍港に選ばれて、それで佐世保が中心地になった。
 

島原市

島原市の「島原」の由来は
 
①海に突き出た島状の地形と耕地(原)を表す地名。
 
②「シマ(領域)」とする説もあり、神宮領であったことから。
+「バラ(地域・場所・集落)」
 
③「チマ(水路を敷設した)」+「バラ(地域・場所・集落)」
 
というのがある。
 
まあ、島状の地形というのが一般的なような気がする。
 
縄文時代に海面が50mくらい上昇した事は科学的に証明されていて、古墳時代や平安時代の終わりごろにも小さな海進があったとされている。
 
その事を考えれば、愛野町のくびれが強くなり、島原が本当に島みたいになった事があるのだろう。
 
島原に行く途中の諫早に船越という地名があることから間違いない。
 
ただ一つ謎だと思うのは、島原は雲仙の島であり、原というイメージがない事である。
 
原という文字の意味だが、平らで広い土地。また、耕作しない平地。とある。
 
平(たいら)というイメージはないが、有明海の干潮の時は確かに広い干潟が見えるので、原なのかもしれないと思う。
 
原の読み方に、バルとハラという二つの読み方がある。
 
これは九州に集中して、福岡の前原(まえばる)市、熊本の田原坂(たばるざか)、佐世保の世知原(せちばる)がそうである。
 
これは韓国語の「原」を意味する言葉の「ボル」が起源だというもっともらしい説があるが、古代には韓国という国は存在しないし、朝鮮半島の言葉がどうだったかもわかっていないので、はっきり言って嘘である。逆に日本語の「バル、ハラ」が朝鮮に伝わった可能性の方が高い。
 
この「バル、ハラ」解説では、稲作地帯に隣接する居住空間、「クニ」を構成する氏族の「館(やかた)」、「墾る(はる)」が転じたもの。つまりは稲作のため開墾された場所を示す、山間部から平野部に『張り出した』場所等々がある。
 
これらの解説はすべて一理ある。
 
島原はバラであるので、九州の中では「バル」勢と違った地域だったのかもしれない。
 
残念ながら推理はここまでで、島状のハラという事で島原だという事に落ち着く。
 
この島原は古代より逸話が多く、長崎の中では一番神秘的な場所である。
 
肥前風土記には景行天皇が巡幸された時、島原半島をみて、「あれは、島か、陸続きか、知りたい」と書かれている。
 
確かに熊本側から島原を見れば、どんな形状かわからないだろう。
 
これにより、島原という地名は、熊本側からつけられた名前だと推測する。
 

子供たちに話す事

島原は古代より有名な場所で、前方後円墳もあったので島原に邪馬台国があったという人もいる。
 
熊本から見たら島のように見えた場所だったので、島原と呼ぶようになった。
 

島原

 

平戸

平戸の由来は
 
古代には庇羅・庇良と書かれ、「ひら」と呼ばれていたが、中世には平戸・平壺・平湖などと書かれた。
 
平戸藩主松浦静山は地名の由来について、平戸の平を庇羅に、戸を庇羅の島と肥前の陸地との門(と)の意味に解釈している。
 
とある。
 
平(ひら)という文字の意味は、たいらという意味だが、島の集まりでたいらな場所ではない。
 
庇羅(ひら)という字をなぜ付けたのか、なぜ庇羅(ひら)というのかを調べてみたが、結局不明である。
 
網を隔てた宇久島には平家盛(平清盛の弟)が壇ノ浦の戦いの後にこの島に逃れて住みつき、五島一円に勢力を伸ばして宇久氏の祖となったという伝説が残っている。
 
平家の平は、桓武天皇の平安京からとったとされている。
 
関係がありそうだが不明である。
 

子供たちに話す事

平戸は松浦党という武士団がいた地域で、昔は「ひら」とよばれていた。
 
戸というのは入り口という意味なので、「ひら」という場所の入り口がある島だから、平戸になった。
 

生月大橋

壱岐

長崎からかなり離れているが、一応長崎県になっている。
 
中国の記録に一支國という文字があることから、昔から壱岐と呼ばれていたのだろうと推測される。
 
中世の壱岐は「100の村」に分かれていて、触 (ふれ)という壱岐独特の地名がある。
 
なので壱(ひとつ)の島だが、多数の村に岐(わか)れている島。そんな意味である。
 

壱岐

子供たちに話す事

壱岐は大昔から栄えていた場所で、一つの島にたくさんの人たちが小さな村に別れて暮らしていたので壱岐とよばれていた。
 

対馬

日本で一番朝鮮に近い島で、韓国人の観光客であふれかえっているという事が有名になった。
 
しかし、古代の神社も多く、日本神道の大本だという説もあるくらい古代より使えていた島である。
 
古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『日本書紀』において、対馬島とある。
 
対馬の対(つい)の字は、島が南北に分かれているからと想像できるが、馬という字の理由がない。
 
対馬は全体が森林で馬が活躍する島ではないからである。
 
古事記では津嶋と書かれていて、港が多い島だからと言われている。
 
この島は古代より中国にも知られていて、倭人が「つしま」と呼ぶ島を、中国人が「対馬」と書いたのが定着したのだと推測される。
 

子供たちに話す事

対馬は港の島なので、津嶋と呼ばれていたんだけど、古代の中国人が「つしま」という名を「対馬」と書いて、それが定着した。
 

対馬

 
さて独断が多いのだが、決して作り話ではない。
 
子供たちに長崎の歴史を話して聞かせるのは大切だと思う。
 
子供たちが将来、長崎の地を離れ、他国や違う地域に行ったとき、「長崎」の歴史を簡単に話せるようにしたいのだ。
 
そしてそれは大人の役割だと思う。