かき道 八大龍王神社
矢上のかき道にある祠で、社殿はない。創立が1743年とある。
かき道の漁港にある祠で、岩がご神体になっている。祠の両脇にはお地蔵さんがまとめられていて、ブランコもあり、公園みたいな場所だ。
由来書にもあるとおり、農業と漁業の町の安全と繁栄の願いが込められていて、自治会が整備した場所だ。
特別紹介する物語もないが、気になったところを書く。
1743年創建
まず1743年と言えば、江戸幕府将軍は徳川吉宗である。この1年前の寛保2年、関東から近畿にかけて大水害(寛保の洪水・高潮)が起こっている。
この水害は近世日本における最大級の風水害被害だったと記録にある。
創立が1743年とあるのは、この災害の事が九州まで知れ渡り、この祠の建立になったのではないかと推測される。
矢上は佐賀藩諌早領である。
佐賀藩の参勤交代は、寛永17年(1640)に認められ三家交替(一家は江戸詰、二家は国元)制をとり、幕府は三支藩を部屋住格の大名としていた。
という事で、江戸の情報は当然佐賀藩にも伝わり、大災害の予防として、住民が動いたのかもと思う。
八大龍王
八大龍王は昔から雨乞いの神様として祀られ、日本各地に八大龍王に関しての神社や祠がある。
ふつうは滝のそばにあるのだが、かき道の場合は八郎川を龍に見立てたのだろう。
八郎川は静かそうな川だが、長崎大水害の時には、矢上地区を流れる八郎川、中尾川はおびただしい流木と土砂で埋めつくされた。
これによって八郎川が氾濫し、死者24名、家屋の全半壊163戸、床上浸水814戸などの甚大な被害をこうむっている。
やはり、川の傍は怖いのである。
海の神様は、恵比寿様や弁天様、金比羅様などがいるが、やはり八郎川のそばなので、龍神を祀ったのだろう。
石碑にも書かれている「時により過ぐれば民の嘆きなり 八大龍王雨やめたまへ」は源実朝の金槐集にある句である。
なおこの和歌は、今上天皇が2015年国際連合本部で開催された「第2回 国連水と災害に関する特別会合」における援護での基調演説の「日本の和歌と俳句における水」の節で英訳され引用されている言葉で有名である。
蠣道浮立
かき道には蠣道浮立がある。記録では旧佐賀藩矢上村蠣道に、江戸時代の文化文政期(1804~I829)頃、北高来郡田結村(現諫早市飯盛町田結)から伝えられたと言われている。
内容は参勤交代の様子を踊り風にしたもので、この辺りのくんちや諫早のんのこ祭りで何度も見ている。
かき道に参勤交代の行列があったとは思わないが、この矢上地区や諫早に残っている集団でやる芸能は、やはり残してほしいと思う。
現在は長崎市なのだが、昔は佐賀藩で、天領の長崎とは全く違った文化である。
いや、長崎の方が特殊なのだと、この浮立を見ると思う。