河童の伝説は日本中にあり、その伝説や昔話は数えきれないほどだ。

その中で水神神社のカッパ石の話が有名なので、この河童を調べてみる。

水神神社の河童

水神神社

長崎の蛍茶屋を登ったところ、本河内水源地の下にある水神神社では毎年五月にカッパにご馳走をする珍しい行事があるという。

真夜中、入り口の扉を閉め切った一つの部屋に大勢のカッパたちが集まってくる。人間の用意したご馳走をたらふく食べて帰るという話だが、その姿は誰にも見えず、カッパの叫び声と茶碗や皿のカチャカチャ鳴る音だけが聞こえてくるそうだ。

面白いことに料理の献立には必ず筍の輪切りがあり、主人役の水神社の神主の前には本物の筍を皿に盛り、カッパたちには育ちすぎたカチカチの竹の節の輪切りを盛るらしい。カッパたちは平気で硬いものを食べる神主さんを見てひどく感心するそうだ。

この神主さんは敏達天皇の孫の栗隈王のずっと後の子孫だと言われており、この栗隈王が日本中の水の中の生き物をまとめる偉い人だからカッパたちが神主さんを敬い慕っていると言われていた。

水神社に来客があるときは前日の晩に神主さんが壁に献立表を掛けておくと、翌朝には必要な野菜や魚が揃えられているという。

長崎市の民話・伝説より抜粋 http://2shin.net/lore/minwa/nagasaki.html

水神神社

カッパ石

解説

面白い言い伝えだ。

河童に関しては民俗学的にも面白い存在で、各地に様々な伝承があり、自由自在に尾ひれがついている。

一般的には、河童の正体は、水死体や、その人を水死させたものの想像であると推定されることが多い。

また、水死体が浮かぶような川や湖沼・池は、特に子供には水難事故の危険が高いため、「そこでは河童が出るので近づくな」と子供たちに警告するために、河童という妖怪が伝承され続けてきた、という推定もある。
ウィキペディア

それ以外にも、戦いに敗れた落ち武者が川を伝っなどがあり、その土地その土地で、いろんな解説もある。

本河内水源地の水神神社の場合を考えてみる。

規律のある河童たち

特徴をあげてみれば、かなり穏やかな集団と言える。

水神社は大正時代、町中に近いに八幡町から引越しをしている。まあ、町が拡張を続けるので、上流へ追い出されたようなものだ。

こんな記録もある。

江戸時代の中期、享保の末(1735年頃)のころ、河太郎(河童のこと)夜毎に出でて社頭の後門を叩き、礫を放ちてやまず。時の社司考へ計りて彼(河童)が潜居の渓流草芥濁壊の物の為に塞げらるることを知り、これを禁じて棄る莫らんことを願ひ請ふて許しを得たり・・という文章が長崎名勝圖絵、川立神祠(かわだちのかみのやしろ)に残っている。

これは水神神社の宮司さんに、河童が川を汚すなと直訴しているという話で、やはり紳士的な集団だとわかる。

栗隈王

敏達天皇

なぜ、紳士的な河童が、水神神社の宮司さんを頼っているかと言えば、敏達天皇の孫の栗隈王(くりくまのおおきみ)の子孫だからという事である。

栗隈王は飛鳥時代の人で、筑紫太宰の地位にあって筑紫(福岡)にいた。時代は白村江の戦いで敗れた時代で、朝鮮半島では新羅と唐が争っている。

栗隈王の仕事は軍事・外交で、壬申の乱の時、近江宮の朝廷は筑紫大宰に対して兵力を送るよう命じる使者を出したが、栗隈王は国外への備えを理由に出兵を断ったとある。

つまり、近江宮朝廷の申し出を断った勇敢な司令官といった所だろう。

この栗隈王が日本の水の中に住んでいる動物を取り纏める人であったという話があるのは長崎の水神神社だけである。

水神神社

水神神社

河伯と百済難民

なぜそんな話が長崎にあるのかと推理すれば、まず河童は中国神話に登場する黄河の神、河伯(かはく)とされている。

「西遊記」の登場人物の沙悟浄は、日本では河童とされるが、中国では河伯とされているのだ。

栗隈王は外交で、唐や新羅、百済の人々と接していたので、異国人をまとめる偉い人といった話が長崎で広まったのかもしれないと思う。

特に百済の人は、白村江の戦いで敗れ九州にやってきていたので、関係があったかもしれない。

となれば、水神神社の河童たちは、百済の難民たちだった可能性がある。

「長崎名所図絵」によると、「あるとき河童がいたずらをして、片手を切られた。河童は、手と引き換えに詫び状を書いた。その文字が判読出来ないので、水神社に持込み神官に読んで貰った。それをそのまま奉納した」と、記されている。

河童文字というやつだ。

河童文字

この一件の言い伝えも、河童たちの文化度が高いという事を示しているので、百済の難民たちだった可能性は高いと思う。

豊前と筍(たけのこ)の輪切り

もう一つ特徴的なことがある。

それは筍(たけのこ)の輪切りが大好きだという事である。

筍は古代より日本で食べられていたが、食用タケノコで圧倒的な比率を占める孟宗竹は、中国原産であり日本に伝来されてきた種だ。

その筍が大好きだとすれば、やはり河童たちは、中国系か朝鮮半島系の難民かもしれない。

また、福岡県久留米市瀬下町の水天宮にも、河童の九州全体の総元締の「九千坊」に、青竹の輪切りをご馳走に出し、感服させた話が伝わっている。

大分県の中津市耶馬溪町にある雲八幡宮では、古くから「河童楽」という河童封じの神事(通称:河童まつり)が行われている。

それは河童を中央に囲み、楽を奏し、唐団扇(とううちわ)と言われる大きな団扇で仰ぐことにより荒ぶる河童の霊魂を鎮めるというもので、その後は河童の神通力によって村の平和は守られたと言い伝えられている。

もう一つ香春町(かわらまち)の水神祭の話が、「豊前と伝説」(定本柳田国男集)に紹介されている。

同町中組では、タケノコ祭りといい、水神様に竹の輪切りを供え、子どもにはタケノコを食べさせた。川の中のカッパに、硬い竹でも食べるだけの力を示した、水難除けの呪術だといわれる。

彦山

豊前といえば、ピンとくるものがある。

水神神社の正面方向の山は彦山だが、この彦山は大分の英彦山から命名されている。

その英彦山の山中には豊前坊下虚空蔵堂がある。

豊前坊下虚空蔵堂

もともと、元和元年(1615)豊前国英彦山から英彦山大権現を勧請し、山頂に祀ったことから彦山(英彦山)と呼ばれるようになったと言われている山である。

まとめ

長崎が開港し、様々な人々が長崎に移り住んできた。

そして大分、福岡の英彦山信仰を持っている人たちが、中島川上流、本河内水源地あたりに住み着いたことも十分考えられるのだ。

となれば、大分(豊前)の河童の話が、長崎の河童の話に上書きされた可能性が高い。

中島川の河童の話は、古代日本にやって来た、中国や朝鮮半島の移民か難民の話が元だったのだろう。

それが水難防止だったり、川の衛生管理の為に転用される話になり、その上に豊前の人々の河童の話が上書きされた。

そう考えると、すべてが辻褄が合う。

民話や伝説には生活の知恵があり、隠された歴史があるものだ。

ただ、変化がありすぎて本筋が見えなくなってしまう事の方が多い。

この河童の話もその中の一つだろう。

長崎の漫画家 清水崑氏の河童 銭座小学校カッパの壁画