立山町 岩杉神社 様々な信仰の寄せ集め
ここからの景色も長崎港が見渡せて素晴らしい。短い参道を登りきった境内は、雑然としているが荒れ果てている雰囲気はない。
ここにはいろんな神様が祀られている。
小さな境内に大きな鳥居が3つほどある。これは改築の際、境内に集められたからだろう。
由緒を書いているものはないがネットの情報があった。
岩杉神社の創建は宝歴四年(1754)年、合わせて、茶臼山大神宮と、岩倉稲荷神社が祀られているとのことで、いずれも日昇館の建設により移転したとのこと。
さらに創建は宝暦4年(1754)で、上長崎村立山郷の鎮守神としてお祀りされていたとの事である。
特別な由来はないようで、自然と出来上がった神社なのだろう。
地図で見れば、岩杉神社のある山を茶臼山というらしい。
茶臼とは葉茶をひいて抹茶にするための石臼の事なので、この山は岩山だったのか、または山の頂上に茶臼のような岩があったのかもしれない。
グーグルアースで見ると岩山とは思えないので、茶臼のような巨岩があったと推測できる。
創建だが石の鳥居に天保十年と彫られているものがある。
西暦で言えば1839年の幕末で、立山郷の鎮守神として宝暦4年(1754)に建てられたとすれば、長い間こじんまりと祀られていたのを、幕末にかけて改修したと思われる。
鳥居の左手に岩杉大明神の神額がかかった祠がある。なので最初は岩杉大明神という神仏混合の神様が祭神だったのだ。
この旧岩原郷には、岩杉という小字があるので、岩杉大明神というのは、この地域の名前から来たものだ。
赤く塗られたレンガの拝殿の奥には、稲荷の狐が祀られている。さらに仏教のロウソク立てと線香立てがあるので、神仏混合は間違いないだろう。
大明神から神社へと名称が変わったのは明治の廃仏毀釈によるものだ。
更にその奥には石でできた扉があるので、岩杉大明神とはこの祠の奥にある岩が御神体だったのだ。
この神社の真下に位置する五社稲荷神社も岩が御神体で、右手にある金毘羅山の頂上にある金比羅の祭神も巨岩である。
そう考えれば、この神社も金比羅と同じ様に、かなり古くから信仰の元があったのではないだろうか。
そして、このあたりの山は神域だったと思える。
その場所にいろんな神様を祀ったのが、今の岩杉神社なのだろう。
岩倉稲荷
創建に茶臼山大神宮と、岩倉稲荷神社を合わせて祀ったとある。
岩倉稲荷は麓の天神町にある銭座天満神社の境内にもあるし、英彦山の登山道にも岩倉大明神の祠がある。
共に巨岩をご神体としているので、岩倉という名前は、巨石信仰の磐座(いわくら)から来ていると推測できる。
大神宮
明治以降、天皇や皇室の祖先神を祭神とする神社の一部が、社号を「神社」から「神宮」に改めた。そして、第二次世界大戦終戦までは、新たに「神宮」の社号を名乗るためには勅許が必要であった。
戦後は神社の国家管理は廃止されたため、神宮を名乗る際に勅許は不要となったがこの事は慣例として残っている。
つまり「大神宮」は本当の「神宮」とは違い、勝手に付けただけだと思う。
まあ不遜さがあったわけではなく、この地域に神道派の人々がいただけであると思う。
境内右手の奥に、性格な文字は読めないが南妙法蓮華経 八大龍王と書かれた石碑がある。
文字の書き方からみて日蓮宗だ。
日蓮宗もこの神社に同居していたことになる。
小さな祠も多くあるが、不明だったのは新しい石の祠で、鹿丸大神、岩丸大神、玉菊大神、杉丸大神などと金文字で彫られている。
鹿丸とか玉菊という神様はいないのだが、この名前を見れば、舞妓さん、芸妓さんの源氏名のようでもある。
長崎は丸山という有名な遊郭があったので、それらに絡んだ人を祀ったのかとも想像するが、全く不明である。
境内にある、いろんな神様たちを見れば、この神社は人気があったのだと感じる。
そしてその神様の数だけ、いろんな信仰を持った人たちがいたことになる。
それは長崎市の発展の経緯と大きく関わってくるのだ。