昭和町 毘沙門神社
場所は昭和公園の端っこ、大通りには長崎大学教育学部附属幼稚園がある場所。
場所がわからずウロウロしていたのだが、それらしい階段を発見し、登ると
コンクリートで固められた崖の奥に、鉄製の鳥居を発見。
その先にお堂があり、そこが毘沙門神社だった。
お堂の中を見ると、石が三体、右側には宝篋印塔、五輪塔らしきものが二体安置されている。
左他の壁にはお供え用のロウソク立てや、お神酒を入れる瓶子(へいし)やお水を入れる水玉がある。
その上に片付けられている額には毘沙門天の真言のようで「オン ベイシラ マンダヤ ソワカ」がひらがなで書かれている。
中央の御神体の石は、文字の痕跡も見えないので、最初から石だったのだろう。
さて、これらの御神体と毘沙門天がどう結びつくのかは、全く不明である。
ネットを探すと調べた方がいて、その話が載っていた。
この毘沙門神社は昭和公園の脇にひっそりとあり、「白へび様」とも呼ばれています。(略)毘沙門神社自体は、昔もう少し下の方にあったそうで、元々御神体は自然石のものが3体ほどしかなかったそうです。宝篋印塔・五輪塔残欠群2体は近場であれどこからか持ち込まれたもののようです。(略)さらに今は昭和公園となっている小山はまん丸とした岩山であったそうで、そこから昔はそのあたりを「丸山」とよんでいたとのことでした。そしてこの丸山に、白蛇のつがいが現れたことから縁起として、「白ヘビ様」とも呼ぶようになったとのことでした。(略)うなぎの会
これだけではわからないので推理してみる。
毘沙門天
毘沙門天神は、古代インド・ヒンドゥー教の神様で、天界に住む者の総称である「天部」の武神である。
お釈迦様を守る四天王の一人で多聞天とも呼ばれる。
名前が変わるのは、単独で祀られる場合は毘沙門天だが、四天王の1人として数えられるときは「多聞天(たもんてん)」というとある。
また、江戸時代に流行った七福神の一人であり、人を従わせ恐れさせる力である「威光」を意味している。
毘沙門天神社は、長与の岡郷にもあるようで、それ以外には同じ長与の摩利支尊神社、時津町の大野原神社の頂上にある摩利支尊天というのがある。
毘沙門天と摩利支尊天はともに天部の武神である。
仏教の天部の神々を神社名にするのは、少し目立つが、これは一般的な信仰に比べ、その効用が限定されていることに特徴がある。
長与や時津の場合、疫病退散がその目的だと書かれている。
なるほど、強い神様の力で病気を退散させたかったのだろう。
長崎の疫病
1858(安政5)年の夏、長崎に来航した米国船により感染症のコレラが持ち込まれ、全国的に猛威をふるった。長崎での被害状況は不明だが、江戸だけで延べ3万人が亡くなったとされる。「コロリ」と呼ばれ当時最も恐れられた病で、「虎狼狸(ころり)」という字を充てて妖怪の仕業とされた。https://this.kiji.is/634587589347247201?c=174761113988793844 長崎新聞社
この事により、長崎では三浦梧門「鍾馗禳魔図」(長崎歴史文化博物館蔵)や高島秋帆「猛虎図」の絵が描かれていて、文化財として保管されている。
おそらく毘沙門天を祀ったのもそのせいかもしれない。
毘沙門天といえば上杉謙信が有名だが、毘沙門天信仰は中世を通じて一般化し、戦国大名にも広く普及していた。
コロナでアマビエがもてはやされたが、あれと同じ事だろう。
昭和町
この場所は江戸時代、浦上家野村と呼ばれていて、大村藩領だった。家野と呼ばれたのは、家野因幡権守公平の領地だっことに由来する。
つまり武家の領地だったので、毘沙門天神社と名付けられ、宝篋印塔や五輪塔が後から祀られたのだろう。
また白へび様だが、この話は全国にある。この白蛇と毘沙門天との関係は不明だが、もしかすると疫病を祓いたいという願いが込められているのかなとも思う。
何も書かれていない石三体の御神体の信仰だが、この令和の時代にも生き残っていることを思えば、やはり意味の在ることなんだろうなと思う。