樺島 熊野神社 謎の多い野母崎と推理
野母崎の樺島大橋を渡り、樺島内の東側、樺島郵便局付近の港を過ぎて、山沿いの民家の中に参道入口がある。
一の鳥居の右手にお堂があり。可愛らしい花がらの衣を着せられた、大きい仏様が4体、小さい仏様が2体祀られている。
一の鳥居は新しそうで、10メートルほど進むと二の鳥居がある。
その神額の中央に、熊野神社、右に八坂神社、左には天満神社と書かれている。
神額に3つの神社が書かれているのは珍しい。その先には20メートルほどだろうか、石段の参道がある。
登りきり本殿の境内に入る。結構広い。
まず右奥には鳥居に行くと天満神社とある。祠の中を見させていただくと、木造の小さな菅原道真が鎮座していた。
本殿左奥には小さな赤い鳥居があり、稲荷神社の祠がある。
中央の熊野神社の祭神は伊邪那美命。
熊野神社は、熊野三山の祭神の勧請を受けた神社だ。熊野三山に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神々が祭神となる。
特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)、速玉(イザナギ)、牟須美(イザナミ)のみを指して熊野三所権現ともいう。家津美御子は樹木を支配する神とされ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の別名ともいわれる。
熊野信仰
熊野信仰は自然信仰である。神武東征の際、熊野で困難にあっている神武天皇を助け、八咫烏で道案内をした事が有名だ。
という事は、天孫族の神ではなく昔から熊野に住む国津神ということになるのだが・・
家津美御子と素戔嗚尊はなぜ同一になっているのか、その理由が不鮮明。
記録だと、この神社の神名が確実に確認できるのは806年とあるので、歴史はあるんだが誰を祀っているのかがよくわからなかったのだ。
9世紀中ごろになると、単に熊野坐神(くまのにますかみ)が祭神とされていて、それ以後、すこしづづ祭神が決まっていったという不思議な神社である。
おそらく大和神話に出てくる神ではなく、神道、仏教が入り混じってよくわからなかったようだ。
まあこんな事を言っても、しょうがないのだが、全国の熊野神社の説明は、そのあたりがとても曖昧で、結局天孫族の神様が主祭神となっている。
ここの熊野神社も祭神は伊邪那美命である。本式に言えば牟須美(むすび)の神様だけど、その神様のことは知らない人が多い。
なので伊邪那美命と言っている方がわかりやすいのだろう。
長崎も熊野神社が多いのだが、なぜ熊野神社を祀るのかという理由が、かなり不鮮明である場合が多い。
明治時代の神仏分離の影響も強いと思うのたが、古事記以外の神様を昔から信仰している所は、明治政府の命令によって神仏の分離を行ったので、なんとなく熊野神社となっているような気がする。
樺島の熊野神社も、鳥居に書かれている3つの神様を祀っている。
熊野神社って、色んな事がアバウトでも問題ないっていう神社なのかも。というより神道じたいが融通無碍なのだ。
まあ、それが面白いのだが。
宮中の香り
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴族の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。ウィキペディア
この事はとても大きいかもしれない。
稲荷神社は商人、八幡神社は武士、そして貴族は熊野神社である。
調べてみると野母崎は都の宮中の香りが漂っているのだ。
野母崎には浦祭りというのがある。
野母浦まつりは長崎県、野母町の伝統行事です。約1300年の歴史があるとされ、漁業の信仰と海上の安全を祈願し毎年8月13日に行われています。旧盆に行われるもので神社仏閣に奉納する踊りと龍神、恵比須神社神社を祀る海上の浦まつりの二つからなり、これを総称して「野母の盆踊」と呼んでいます。
奉納踊りは「鉾舞(ほこまい)」「モッセー」「中老(ちゅうろう)」「トノギャン」で構成されてます。
奉納踊の中の「中老(ちゅうろう)」だが、「中老」の催馬楽(さいばら)の歌 で「催馬楽」は鎌倉時代から伝わる宮廷歌謡の一つ。その中の代表的な歌が「ちゅうろう(中老)」で、「文書き」など18種類がある。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/uta/050729/
「催馬楽」はもともと一般庶民のあいだで歌われていた歌謡で、決められた歌詞や音律はない。
野母崎の「ちゅうろう」の中に「契ぞうすき」という文言がある。葛城の神と契りを結んでいるという内容である。
葛城(かつらぎ)の神というと、大和の国(奈良県)葛城山に住むという一言主神(ひとことぬしのかみ)である。
一言主神(ひとことぬしのかみ)は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と言ったとある
つまり、かつらぎ(葛城)というのは 奈良県盆地の古地名である。
神武天皇を助けたのも葛城(かつらぎ)の神だと解釈する人も多い。そんな宮中の歌が、野母崎の盆踊りにある事自体、不自然である。
推理してみる。
野母崎の言い伝えで、7世紀半ば紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流して住み着いたとある。
7世紀の大和では、大変なことが起こっている。
乙巳の変(いっしのへん)である。
乙巳の変(いっしのへん)は、飛鳥時代645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺して蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした政変である。 その後、中大兄皇子は体制を刷新して大化の改新と呼ばれる改革を断行した。
この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになった。
つまり、皇族同士の主導権争いである。
その時期に、紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流してきたという話だが、これって大化の改新で、体制側ではない一族が、奈良から逃げだしたという事ではないのか。
こう推理すると、野母崎に宮中の歌があるというのも理解できるし、熊野神社の存在も納得がいくのだ。
野母の地名の由来
もう一つ納得の行かないモノがある。それが野母という地名のことである。
野母の地名の由来には諸説ありますが、この熊野神社の縁起によると、無人の野っ原に老母が住居を構え村落をなしたので、この老母の功績を後世に伝えようと、"野の母"で野母と名付けられたといわれています。
この伝説を否定する根拠はないが、肯定するものもない。
"野の母"で野母というのは、私にはただの作り話のように思えるのだ。
野母崎には、長崎では最古の寺院(709年)といわれる観音寺がある。
このお寺は江戸時代大変栄えている。
その理由は、脇岬が長崎半島南端部にあり長崎へ出入りする唐船の風待ち港として用いられたことから、寺内寄進物の施主には長崎の町人・遊女のみならず中国貿易商人らも名を連ねているからである。ウィキペディア
つまり、この地域は中国大陸の国と交易が盛んにあったことになる。
長崎にはランタンフェスティバルという大人気のイベントが有る。中国、道教の色合いの強い祭だ。
その中に、媽祖(まそ)行列というものがある。
媽祖は、航海、漁業の神で、台湾、福健省など華南地方海岸一帯で信仰されている。
野間岬
鹿児島県野間岬は長崎の野母崎と同じような場所である。
この場所の野間だが、媽祖の呼び方の一つのロウマが訛って野間になったといわれる。
野間の伝説では、海辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」で、正式には「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。
この神は、海を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持ち、南は海南島からマカオ、台湾、沖縄に至るまで、広く祀られている。
この神の溺死体が漂着したところが南さつま市の野間岬である。
野間岳の中腹にある「野間神社」の由緒書きには「娘媽」の死体が野間岬に漂着し たのでこれを野間岳に祀ったと記されている。
「娘媽」は「ノーマ」または「ニャンマ」と読む。
なるほどと思った。
野母の色んな歴史や状況を考えれば、野母の地名が「野の母」ではない可能性のほうが強い。
野母崎にやって来た中国の貿易船には、「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」を祀っていた。
「娘媽」は「ノーマ」である。ここから野母「のも」という地名が生まれたと推理した。
野母崎は、ただの僻地の港ではなかったのだ。
古代より東南アジアや中国大陸、朝鮮半島などの船が出入りしていたのだろう。
しかし野母半島は陸路は大変で、陸の孤島になっていたと思える。
なので独特の文化が生まれたののではないだろうか。
私が不思議に思った箇所を書き出してみた。
■ここの熊野神社の鳥居の神額に、熊野神社、八坂神社、天満神社と書かれている。熊野は奈良と和歌山、八坂神社は京都、天満神社の菅原道真は元公家さんで京都。3つとも大和朝廷が絡んでいる。
■樺島には山の上に行者山神社というのがある。山岳信仰の始祖の役小角は、葛城山で山岳修行を行い、熊野や大峰の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いている。葛城も熊野も十分関係がある。
■7世紀半ば紀州熊野の漁師夫婦が野母に漂流して住み着いたとある。
■野母の盆踊の奉納踊りには「中老(ちゅうろう)」という歌があり、宮廷歌謡の一つ。
■長崎では最古の寺院(709年)といわれる観音寺がある。
また樺島という地名の由来だが
島内には各所に湧水が多く、船舶に水を補給するための井戸が随所に掘られ、水が豊かであることから「川場島(かわばしま)」→「樺島」と転訛したとされる。ウィキペディア
つまり、色んな国の船がこの島に立ち寄らなければいけない事情の一つに、水の補給があったのだ。
だいぶ熊野神社の話から脱線したが、そんな不思議な野母崎の古代の歴史が、熊野神社の誕生に絡んでいると思う。