為石神社 昔は大王社
長崎県長崎市為石町1963
為石は三和地区にある。市内から野母崎へ行く途中、三和の元宮公園から分かれ道がある。その道を川原方面へ行くと港があり、そこが為石港だ。
神社は海岸の近くの民家群へ入ったところにある。
しっかりとした石の鳥居の石段を上がると社殿があり、左右に狛犬と石灯籠。社殿は新しく、白っぽいコンクリート製だ。神社の形式だが、なんかちぐはぐな作りの印象だ。
拝殿の左右の壁に桐の紋が描かれている。これもちょっと違和感がある。
桐の紋はその時代の政権が使う紋章で、現在は日本政府が使っている。一般の神社で使うには大きすぎる紋章なのだ。
拝殿の扉は閉められており、覗くと板張りの拝殿だ。特別変わっている点はない。
拝殿の扉には祭神は奥津比古命と奥津比売命と木の板にマジックでしっかり書かれている。
この二神は火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされる。
境内左にはもう一つ鳥居があり、天満宮が祀られている。
なにか由緒があるのかとネットを探したが、昔10回も火災にあい、由緒物件はすべて焼滅したとのことだ。
なるほど。だから、かまどの神を祀っているのかも知れない。しかし為石神社の境内に、なぜ天満宮が祀られているのかが不明である。
もう一つ、昔は大王社と呼ばれていたとだけわかった。
大王とは誰だろうか。これも不明だ。大王が付く神社は各地にあるが、頭に固有名詞や地域名が付くことが多い。
調べてみるとちょっと引っかかるものがあったので記載する。
佐賀に延喜社(佐賀市大和町花久保)という神社がある。
祭神は延喜大王である。延喜大王は宇多天皇の第2皇子で斉世親王と称し、妻は菅原道真の娘である。昌泰4年(901)九州の太宰府に左遷され、延喜2年(903)配所で没した道真の不遇を悲しみ、自らも剃髪して仏門に入り九州に下向してこの地に来たり行鎮寺を建立した。ここで病死した延喜大王を後世の人が神として祀ったのが延喜社である。
ここの大王は延喜大王だ。引っかかったのは「妻は菅原道真の娘」という点だった。
大王はダイオウとも読むが、大王(おおきみ)とも読み、古代日本における天皇、皇子、皇女に対する尊称である。
為石神社が大王社と昔呼んでいたとなると、皇族を祀っていたのかもと思う。
そうすれば、拝殿の左右にえがかれた桐の紋章も理解が出来る。
そして、為石神社が菅原道真につながる誰かを祀っていたとしたら、境内の天満宮も建てられた理由がわかる。
だけど記録には何も残っていないということで、私の単なる想像である。
ただ、昔、為石は佐嘉領為石村という記録がある。佐賀藩なのだ。
少しこの地域のことを調べてみた。
「為石」の地名由来について、村域を流れる大川の河口にできた砂州が溜って水流をせき止めた溜州(ためす)が転訛して「ためし」になり、為石と表記されるようになったとする説がある。
平安の荘園時代では天草灘に面するここ らの地は彼杵荘ではなく伊佐早荘に属していた可能性が強く、南北朝期の暦応5年(1342)には在地豪族の川原氏がいたとされる。
戦国時代になると深堀氏が長崎半島をほぼその領域支配下におくことになったとある。
しかし深堀純賢は長崎半島のほぼ全域に及ぶ所領を安堵されたが、翌年 海賊行為を豊臣秀吉に責められ所領を没収され、川原・野母・高浜の3か村1,000 石は豊前小倉城主毛利壱岐守吉成が支配し、その後幕府領となり、長崎奉行寺沢志摩守広高が支配した。
一時失脚したのだが、その後深堀氏は佐賀藩の家臣に編入され、代々深堀その他で6,000石を知行、佐賀藩家老として明治維新を迎えたとある。
これは「新長崎市の史跡探訪」の文を抜粋したものだが、正確すぎてよくわからない。
まあ、為石は深掘氏の治めていた土地だったので、佐賀藩だったということになる。
また、古代の記述もあった。
原始時代の遺跡として黒岩遺跡があり、縄文時代早期の局部磨製石鏃も発見され、縄文中期から弥生時代を経て古墳時代にい たる遺物が出土した為石遺跡が発掘されている。
また、10世紀から12~3世紀頃に盛んに製作された石鍋の製作跡もあって、古く旧石器から歴史時代にかけて当地が栄えていたことを物語っている。
なるほど。
橘湾沿いは、古代の遺跡も多く、一つの海上文化圏を作っていたのだろう。それだけ古くから人が住んでいれば、独特の信仰もあったのだろう。
為石神社が、昔、佐賀の信仰とつながっていたというのも、あながち間違いではないかも知れない。
ただ、今の為石神社は少し荒みかけているような気がする。
それが少し残念である。