大瀬戸 白嶽稲荷神社 対馬の古代白嶽信仰と角力灘の由来
場所は長崎県西海市大瀬戸町瀬戸福島郷。
大瀬戸地域の中心部で、海岸沿いにはビジネスホテルやコンビニが有る。
陸地に深く入りくんだ、この港は風よけに最高だと思える。
地図を見れば、北の焼島と埋立で繋がり一体の陸地を形成している。西には松島がある。南は角力灘に面し、すぐ南には頭島(字頭島)が存在する。
この地域は面白い名前が多い。
頭島(字頭島)は「天下島」と呼ばれていたが、大村純鎮がこの地を巡視した際に頭ヶ島に改めたといわれている。
天下島の名は、かつてこの島に天下兵衛という無頼の者がこの島の景色が佳しいということを伝え聞き、時折この島に来ては酒盛りなどを行っていたことにより名付けられたといわれる。
こんな事が記録で残っているのは大村藩の管轄だからだ。
かつてこの区域は「焼島」と呼ばれる柴山の無人島だったが、1687年(貞享4年)11月7日に三重村で火災があった際に三重村の間三右エ門が村人10人を引き連れこの島に移住したといわれる。
その際に焼島の名を縁起がいい福島に変えることを許されたといわれる。焼島の名は福島の北の小島にその名を残している。
埋め立てで地続きになる前の福島は、瀬戸の港にとって松島とともに天然の防波堤になっていたとされる。また幕末の嘉永年間に外国船攻撃用に作られた台場が1858年(安政5年)にはより内陸の西浜郷に移されている。ウィキペディア
という事で今回行った白嶽稲荷神社の住所は福島なのだ。
漁港が見渡せる小山の上に有る。登り口が港側にあり、頂上に続く石段を登る。結構急な傾斜で、神社まで結構登る。
神社手前に一の鳥居が有る。白壁と木の枠が茶色で、なんとなくおしゃれな感じがする小さな社だ。
拝殿は板張りでシンプル。全体をみれば新しく改修されている事がわかる。
神殿はなく、拝殿の後ろに回り込むと、石垣の上に乗った祠があった。これが祭神だ。
白嶽稲荷神社なので、祭神は稲荷だろう。とすれば、この小山が白嶽と言う事か。
この地域のことは、詳しく記録に残っているのだが、この白嶽稲荷神社については何もないようだ。
稲荷神社とあるが、鳥居も赤くないし、キツネさんもいない。なにか理由が有るのだろう。
ただ、この小山が白嶽とは思えない。嶽の字の意味は高くて大きい山のことだからだ。
とすれば、白嶽の稲荷神社ではなく、白嶽稲荷を祀った神社ということになる。
白嶽
ネットで調べると白嶽稲荷大明神という神社が福岡市東区弘という所にあった。
対馬にも白嶽があった。
「洲藻白嶽原始林。古くから霊峰として崇敬され、九州百名山にも選定されている対馬のシンボル・白嶽」というタイトルのページがあった。その山には白嶽神社もある。
由緒
神籬磐境(ひもろぎいわさか)の上古制の社にして 津島七岳の宗社として 深林鬱蒼峻岳秀麗の地なり古来 蛇淵を中の御所と称し 緑原を遥拝所となし 茲に 神殿を設けたり国主の崇敬ありし神社にて 洲藻の総鎮守神なり
祭神は大山祇神、多久頭魂神。
多久頭神(たくづたまのかみ)は対馬特有の神で、神仏混淆の天道信仰だ。
対馬は一度行ったことが有るが、古代神道の塊のような場所で、入ってはいけない神域も結構有る。白嶽も聖域のようである。
更にネットを探すと、登山家の人のブログで白嶽を目指す山道に、稲荷の祠がいくつか有ると書いていた。
この大瀬戸の白嶽稲荷神社と何か関係があるのだろうか。
記録には一切書かれていないが、地図を見れば、対馬の白嶽、福岡の白嶽稲荷大明神と、そしてこの白嶽稲荷神社は、二等辺三角形の位置に有る。
想像だが、対馬の白嶽信仰を持つ人が、福岡と大瀬戸に渡ってきた可能性も有る。
さらに気になることが有る。
洲藻白嶽原始林という言葉である。洲藻(すも)は場所の名だ。
大瀬戸に接する海も角力(すもう)灘という。
五島灘の一部で、西彼杵半島沿岸海域には角力灘(すもうなだ)の別称があると書かれている。
角力灘の名前の由来は不明である。
対馬の洲藻(すも)地域は、上対馬と下対馬のつながり部分で、金田城跡がある地域だ。
金田城は、古代山城(朝鮮式山城)で、唐・新羅の侵攻の備えである。
この地域を車で走ったことが有るが、小さな島が群れ、その間を海があるといった感じの場所だった。
対馬の白嶽神社の祭神は多久頭魂神だとある。この神様は天道信仰という、神道の天照大御神の元のような信仰である。
とにかく、不思議な場所だった。
洲藻(すも)という地域の由来は不明。説明を見つけたが、あまり納得できない。
洲藻の語源については、津島紀事は日本書紀の一文を引いて、「上代まだ家がなく軽い身分の者は岩屋や木の枝にすんでいたあとがまれにある。洲藻は山が深く恐らく巣に住む里であったであろう。洲藻とは洲住う(ススモウ)の略であろう」
実際に対馬のあの地域を歩いて見てみれば、地名語の解説のほうが理解できる。
地名語ではスは砂浜や暗礁などをいい、モは茂る、静か、藻などと解され、静かな砂浜か、山の茂った砂浜などとなるようである。
現場の状況や文字から推測すれば、小さな島が藻の様に群がった場所と推測できる。
この地域の人が、大瀬戸に渡ってきたことは十分推測される。
それというのも対馬は度々朝鮮半島の国から、侵略を受け多くの犠牲者を出しているからだ。
その為、大瀬戸地域に逃げおちた可能性は大である。
そういえば大瀬戸には「陸上に土地や家屋を所有せず、船内に寝泊まりしながら各地(領地)内を移動しながら漁労を行った」という家船(えぶね)衆がいたとある。
「家船(えぶね)」の始まり
近世から近代にかけて、家を持たないで舟で生活する漁師のことを言う。長崎県の西彼杵半島にある瀬戸町(現在:長崎県西海市大瀬戸町)の一部をなす福島の集落に、この家船の集団があって、その舟は五尋舟(ごひろぶね)といい藁屋根を掛けて雨露をしのぎ、遠く朝鮮海岸までも漁に出ていた。家船は古代の海人部 (あまべ) の残留とする説もある。
ここに、大瀬戸町福島の集落の文字がある。
別の解説では、九州長崎県の西海岸から五島列島,壱岐,対馬などに分布していた一群の海上漂泊漁民の集団とある。
状況証拠しかないが、物語はつながってきた。
対馬の海上漂泊漁民は、対馬の白嶽信仰を持っていた。
その人達は、色んな理由で大瀬戸までやって来た。
そして、大瀬戸で海上漂泊生活を続けた。
そして、洲藻(すも)地域の人々が移動していた海上を、洲藻(すも)人の海というので「すも灘」と呼び、それが角力灘となった。
そして、大瀬戸町福島の集落の山の上に、故郷の対馬の白嶽信仰の祠を建てた。
それが、白嶽稲荷神社の元になった。
これはかなりの確率で正解のような気がする。
気がすると書いたのは、証拠がなにもないからである。
しかし、いつか古代の文章が見つかれば、証明されるかも知れない。
大瀬戸と対馬。海の民にしてみれば、その距離はそれほど問題ではなかったのかも知れないと思う。