小野 天満神社 仏像との共存で栄える

〒854-0034 長崎県諫早市小野町676番地1

小野 天満神社

小野 天満神社

小野 天満神社

国道27号線を島原方面へ進む。道は右手が住宅地と山、左手が干拓地になっていて、島原鉄道の小野駅の近くだ。近くに小野島天満宮というのもあり紛らわしい。

道路と平行に建てられていて、道脇の石段の先に一の鳥居がある。

その先には石橋があり、唐風の門がある。どうも鳥居を模しているようで、扁額があり天満宮の額がある。

小野 天満神社

小野 天満神社

小野 天満神社 拝殿

神社はひと目見て古いと思える。拝殿の前には石灯籠が両サイドに二基づつ。

拝殿にはだらりとしたしめ縄と、鈴がある。しめ縄には三つの房がついている。

拝殿の中は広く、畳が敷いていて、神殿入口の左右に壁代という幕がたらされている。

小野 天満神社 もう一つの鳥居

小野 天満神社 もう一つの鳥居 天満宮?

小野の六地蔵石幢群

小野の六地蔵石幢群 案内板

小野の六地蔵石幢群

小野の六地蔵石幢群

小野の六地蔵石幢群

境内は広く、神社の右手に、もう一つ鳥居がある。扁額は読めなかった。

鳥居の奥には石像がずらりと並んでいる。

正面には伊予国、浄土寺と書かれた白い票木が立てられていて、祠付きの石塔があり、色鮮やかな菅原道真像が鎮座している。

左手には説明板があり、「小野の六地蔵石幢群 六基」の由来が書いている。

 小野の六地蔵石幢群は、小野町の天満宮境内の4基、馬場性空寺谷の1基、赤崎町の1基からなる。天文年間(1532~1554)に建立されたもので、建立者の銘「悦岩宗喜」、「藤原尚信」などは、中世に諫早を治めていた西郷氏の領国経営にかかわる人物と思われる。形状は、宝珠、笠、龕(がん)、中台、上竿、下竿からなる重制で、佐賀型と言われるものである。これらの六地蔵石幢は県下でも古く、地域の人々の信仰に支えられ今日まで保存継承されてきたものであり、民俗文化財として貴重である

石幢(せきどう)群が何なのかがわからなかった。

石塔の一。六角または八角の石柱と、仏龕(ぶつがん)・笠・宝珠などからなる。中国から渡来し、日本では室町時代以降のものが多い。

石幢

仏龕(ぶつがん)もわからなかった。

仏像や経文を安置するために壁面や塔内に設けられた小室。

仏龕

なるほど、最初見た菅原道真の像は、仏龕というものの中に設置されていたんだとわかった。

伊予国、浄土寺と書かれた案内の木の杭があったが、それは伊予国(愛媛)の真言宗豊山派の寺院のようだ。

また四角の石塔に、仏が彫られたものも立ってある。

あー。仏教関係は難しい。

宗派も多いし、宗派ごとに色々あって覚えられない。また色んなものに独自の名前があって、更に混乱してしまう。

その点、神道はシンプルである。

仏教はキリシタン禁止令で、幕府と直結し庶民の中に根を下ろし栄えてきた。ただ、その教義の複雑さと、僧侶のエリート意識からか、一部の人々からは非難されてきた。また、独自の勢力となり、権力と結びついても来た。

江戸時代が終わり、徳川幕府とともに仏教も大きく傾き、明治政府の神仏分離政策からの廃仏毀釈運動は、その仏教界の悪しき膿を出すこととなったのは、周知のことだろう。

キリスト教も仏教も、教義は素晴らしく、信仰は人々に愛され続けてきたのに、それを形作る人間によって、腐敗した例も多い。

それはとても残念だと思う。

天満神社は、諫早(竜造寺)氏の前の領主、小野城主西郷信尚が天正年間創建(1600年ごろ)創建しで、信尚の信仰が篤かったという。

西郷氏は熊本の菊池一族の流れをくむ氏で、諫早を100年ほど治めていた領主だ。

となれば、この神社と仏像群はかなり古い。

日本は神仏習合で、古代から神道と仏教は混じり合って信仰されてきた。

神社の鳥居の奥に、唐風の仏教系の門があっても何の違和感はなかったのだろう。

小野 天満神社 唐風の門

天神信仰は全国に広がっていて、長崎にも天満系は多い。

その理由だが、様々な解説がある中で、私は怨霊系でパワーが有る部分と、エリートで頭がいいといった、スーパーマン的な部分が愛されてきた理由だと思う。

また、武士が関わった地域にも多いような気がする。

ここまで古い遺跡がしっかり残っている神社は珍しい。

特に諫早の小野地区は、古い歴史を持っている地域だ。もしかしたら長崎県内でも、上位に入る地域だと思う。

小野 天満神社

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