川原 住吉神社 阿池姫伝説
長崎市内から為石の港を目指して走り、海岸線に有る長崎西彼農業協同組合 三和町支店から山側に行く。
アスファルトで舗装された道沿いの右手に、低い石垣に囲まれた神社がある。
一の鳥居はまだ新しく、石段を少し登ると広い境内に出る。
社殿はいかにも古そうな瓦屋根の神仏習合の社で、右手に社務所、社と並んでいる。
拝殿の前上には、ピンと張ったしめ縄がかけられている。入り口の賽銭箱は鉄の鎖で繋がれていて迫力が有る。
拝殿を覗くと、板張りで神殿へ続く階段には、祭祀用の太鼓とお供えの道具が右隅にあり、神殿への階段の中央に何も載っていない三宝が2つ。その上段には神紙だのついた祓いが供えられている。
拝殿の左右と正面上には、名前が書き連なっている木の板が多数飾られていて賑やかだ。
一つ気になったのが、しめ縄で、青竹に紐でくくられてピンと張るやり方は、長崎半島の神社でよく見る。地域によって流行りが有るんだろう。
左手には巨大な楠がそびえ立っている。木の前には説明の看板が建っている。
市指定天然記念物で、樹齢約500年といわれる巨木である。目通り幹囲5.75メートル、樹高約26.0メートル、枝張り南北23.5メートル、東西26.7メートルを測り、樹形、樹勢ともよい。
一の鳥居のそばには石灯籠があり、その後ろにコンクリの台の上に狛犬が置かれている。
狛犬は拝殿前にも有るのだが、一の鳥居そばの狛犬は、なんとも不思議な形態をしている。
顔がでかく、かなり漫画チックなのだ。
拝殿の右手に有る境内社は八坂神社だとある。拝殿はかなりシンプルで左右の隅に置かれている鉾みたいな棒が立てかけられていて、何のために使うのかが気になった。
由緒だが、しっかり書かれているホームページが有り、せっかくなので全文コピーさせていただいた。
御祭神:表筒男命、中筒男命、底筒男命
境内社:八坂神社
由緒:当社の始まりは、六六代一条天皇の時代。正暦5甲午年(994)、川原大蔵大夫高満の勧請により、川原大明神と称して創建されました。しかし四百数十年の歳月で社殿等の老朽化著しくなり、康正2丙子年(1456)8月16日、大家源左衛門大江宗種が再建、今村和泉豊宗を祠官(神官)とし社務をゆだねた。
ところが安土・桃山から江戸初期ごろはキリスト教が盛んで、住民のほとんどがその信者となって、神祇(祭礼)をおろそかにし、衰退の一途をたどった。しかし元和・寛永ごろ(1615~43)キリシタン禁制により、時の領主寺沢広高は、当社の復興を認め、今村左近豊次を祠官とした。
その時、住吉大明神と改められてより先、永禄元戊午年(1558)、左近豊次は京に上り、神祇官卜部家に唯一神道の極意を受けている。その後、正徳2壬辰年(1712)9月、今村左近豊正もこの社を再び盛り立てたので、同年草創という棟札の記録が残され、それからも今村家が代々相伝している。
文政6年(1823)第九代今村大学守豊高の代に社殿を改築。この時の庄屋が今村弥五衛門重高(九代)、年寄が森又左衛門(森家十一代)川原弥兵衛(大江家十六代)、並びに高平嘉右衛門で、大工の棟梁は川原の佐藤佐十で在った。
その後、数次にわたり改修が行われ、現在の社殿は、昭和初期のものである。明治に至り社名を住吉神社に改称。
この神社は説明どおりだとかなり古い。
川原(河原)大蔵太夫高満(おおくらだゆうたかみつ)とは何処の誰なんだろうか。
994年は平安時代である。まだ荘園制度がいきていたのだが、長崎半島は平地が少なく、荘園とは関係がないようだ。
長崎市の歴史的風致形成の背景
https://www.city.nagasaki.lg.jp/sumai/660000/667011/p034307_d/fil/1syou.pdf平安時代末期に編さんされた「本朝世紀」によれば、天慶8年(945)、高来郡肥最崎の警固所が呉越船(中国船)を発見し肥最崎にて兵船12隻で追跡し、嶋浦に抑留したとされている。
肥最崎は、現在の脇岬一帯と想定され、異国船監視の要衝として公的 施設が設置されていたことを示している。律令制に基づき、全国的に農地を方形に区分した条里制が施 行されたが、長崎市域においては、長崎半島の川原地区に「北の坪」、「小坪」などの条里関係地名が残っており、小規模ながら条里地割による耕地が存在していたと考えられる。
天平 15 年(743)の墾田永年私財法の発布以後、貴族や寺社 などが所有する「荘園」と呼ばれる広大な私有地が成立し、11 世紀ごろから、地方の開発領主は所領を貴族や寺社に寄進してその保護を求め、各地に寄進地系荘園が増加していった。
長崎市域においても、平安時代末までに彼杵荘 、伊佐早荘が成立、伊佐早荘に含まれた長崎半島のほぼ全域は、仁和寺の末寺である肥御崎寺の荘園が広がっていたとされる。
肥御崎寺の遺構の一つと想定される脇岬町の観音寺には、藤原時代後期の特徴がみられる重要文化財「木造千手観音立像」が祀られ西国における藤原文化の名残を伝えている。
このほか、長崎市域における古代から中世にかけての特徴的な遺跡として、西彼杵半島・長崎半島の山間部には、滑石製石鍋の製作遺跡が分布している。
この記録によれば、長崎半島は伊佐早荘と呼ばれる荘園があったとされる。
945年には呉越船(中国船)を発見し抑留したと有る。まだまだ物騒な時代で、日本沿岸での海賊行為頻発していた。
9世紀から11世紀に掛けての日本は、記録に残るだけでも新羅や高麗などの外国の海賊による襲撃略奪を数十回受けており、特に酷い被害を被ったのが筑前、筑後、肥前、肥後、薩摩の九州沿岸であったという。
そんな情勢の中で、川原地区を治めていた川原大蔵大夫高満は、単なる豪族ではなく、伊佐早荘に関係した役人か武家一族の一人だと思える。
(抜粋)著者は伝説中の「大蔵大輔高満」を平清盛配下の「原田種直」ではないかと推察しておられる。
~有明海の平家の動きと平家物語に謎を追う~」(境 俊幸著)
http://gownagownaguinkujira.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-9ba7.html
なるほど、調べていた人がいた事に驚く。
川原大池の阿池姫(おちひめ)
肥前の国高来郡川原村(現在の川原)の領主、大蔵太夫高満には、阿池姫(おちひめ)という容姿端麗な娘がいた。
阿池姫は領内の大山にあった楠の大樹に幼いころより慣れ親しみ、周囲の者は「姫は楠の大樹に恋をしてしまったらしい」と噂したほどだった。
それから数年後、高満は例の楠の大樹で船を造った。ところがこの船を海岸まで引出そうとしたとき、船が全く動かなくなってしまった。
そこで高満が占ってもらうと、"阿池姫という娘を船に乗せると人力なしで船おのずから海に浮くべし"と言われた。
さっそく高満が阿池姫を美しく飾って船に乗せると、不思議なことに船が一人でに動きだすではないか。
しかし大池の所にさしかかると空は一変、大暴風が起こり、雷はとどろいた。そしてなんと、地が裂け、一里四方の地面が沈んでたちどころに池となったのだ。
そして阿池姫は、船もろとも跡形もなく消えてしまったという。
この事件後も、大池の周囲では妖気が漂って人が寄り付かないので、高満は熊野から弟であり修験者の知行を招いて妖気退散の祈祷を行なった。
すると満願の夜、鋭い目、赤い舌、五つの角を持つ龍が現れた。龍はひとたび池に潜ってから再び現れると美しい阿池姫の姿になって"私(阿池姫)は実は文珠菩薩なのです。この後私を川原権現として崇めればこの地の守護神となりますよ"と言った。
そのため知行は、池の西に権現堂を建て、自ら文珠菩薩像を刻んで安置した。その際に建てられたのが、今も川原大池にある池の御前神社だ。
長崎県郷土誌(昭和八年編纂)の「伝説の部・川原村の項」には姫の名前は「汚地(おち)」となっている。また別の記録では「遠知(おち)姫」である。
汚地(おち)だとすれば、池が荒れていて汚い水たまりだったとも読めるし、遠知(おち)姫だと、遠隔地の女性とも想像できる。
この話をざっくり読めば、人身御供か海賊による拉致事件の話である。
この時代の川原大池は、しっかり海につながっていたらしい。
想像をたくましくして考えれば、海から川原大池に賊が入り込み、女性をさらっていったとも読める。
この時代は前述したが、朝鮮半島から度々海賊がやって来て、九州沿岸に襲いかかっている。
川原地域にそれらしき話はないが、阿池姫伝説がその一つかもしれないと思う。
後半の龍の話は、阿池姫の名前が、(ヤマタノ)オロチに似ているから、後付したものだと思う。
川原領主の川原大蔵大夫高満は、そんな不名誉を隠す目的で、伝説を作り川原大明神を祀った。
さてどうだろうか。
考えすぎかな。