大瀬戸雪浦 川上神社 鳥居のない締め切った神社

長崎県西海市大瀬戸町雪浦上郷 川上神社

雪浦川

大瀬戸雪浦 川上神社

大瀬戸雪浦 川上神社

大瀬戸雪浦 川上神社

大瀬戸雪浦 川上神社  祭神の祠

大瀬戸雪浦 川上神社

大瀬戸方面の雪浦川の下流にある。行った日の雪浦川は穏やかで透明度の高い川の流れがきれいだった。また海に近い川は、引き潮だったので川底の半分が見えている。

穏やかで広くきれいな川と言う印象を強く受ける。

その川に沿った道脇に川上神社はある。

だが入り口に鳥居がない。広い境内は、風が吹けば土煙が巻き上がるように乾いていて、神社は川に向かって拝殿がある。

拝殿入り口あたりに、しめ縄に紙垂が付けられ張られているのだが、神社の窓や拝殿入り口は、木の雨戸で閉じられている。

神殿のある場所には石の台の上に、石の祠が祀られている。

鎮守の森もなく、広場に締め切った社殿が建っているだけ。そんな雰囲気である。

佐賀の河上神社

祭神は與止姫命(ヨドヒメノミコト)。

與止日女神社(よどひめじんじゃ)という名の神社が佐賀県佐賀市にある。

旧社「淀姫神社」とも表記され、別称として「河上神社」、通称として「淀姫さん」とも呼ばれているとある。

『肥前国風土記』逸文(神名帳頭注)によれば、欽明天皇25年(564年?)11月1日に與止姫の神が鎮座したという。 世田姫神社の北に川上があり鮎や謂魚が逆流して潜ったりしていたとあり、同書に収録された川にまつわる説話から、水神信仰として成立したものと見られている。

佐賀県を中心とする北九州地方には、與止日女神(淀姫神)を祀る神社が多数あり、そのうち当社を含めた6社が嘉瀬川流域にある。

與止姫命(ヨドヒメノミコト)は神功皇后の妹または、豊玉姫の説があるが、佐賀の河上神社が雪浦川の下流にやってきたようである。

大瀬戸は大村藩所轄だが十分ありうる。

下宮小路

この神社は熊野神社の下宮とあり、案内板には下宮小路(したのみやしゅうじ)と書かれている。

雪浦くんちがあり、上のお宮(熊野神社)で厳かに「神幸祭(しんこうさい)」と呼ばれる、神事が行われ、

その後、お下りとなり、お宮からの急な階段を、お神輿、舞姫、砂切の一行の行列が続く。

その下宮が川上神社だ。

下宮に御神体が安置され、参着祭(さんちゃくさい)と呼ばれる神事が行われる。

上宮の熊野神社の御神体はスサノウである。とすれば神輿の中はスサノウで、川上神社の祭神とは違う神様となる。

長崎のおくんちでは、御旅所と呼ばれる特設会場が作られ、そこに神々は安置される。

雪浦くんちも同じ構造だとすれば、川上神社はただの御旅所会場で、神社としての意味はないのだろう。

下宮小路

下宮小路(したのみやしゅうじ)と言う名前だが、小路と書いて「しゅうじ」と読むのは、諫早市内の高麗小路と同じだ。

諫早の小路は『この石畳の通りは江戸時代以前より高麗小路(こうらしゅうじ)の通称で親しまれています』とある。

とすれば、下宮小路(したのみやしゅうじ)も江戸時代以前の古い読み方かも知れない。

諫早 高麗小路

推理

佐賀の與止日女神社の與止姫命(ヨドヒメノミコト)は、肥前国風土記によれば、欽明天皇25年(564年?)に鎮座したとある。

その時代は佐賀藩、大村藩などは当然ない。

佐賀の與止日女神社を信仰する一族がこの地にやってきて、大瀬戸の雪浦川の下流に、佐賀の與止日女神社の分霊として、この地に祀り、佐賀の神社と同じ川上神社と名付けた。

下宮小路(したのみやしゅうじ)という呼び方もこの時代のものかも知れない。

時代が変わり、大瀬戸は大村藩の所領となる。

佐賀由来の川上神社は、大村氏にとって、特別大切な神社じゃなかったのだろう。

そこで、鳥居を取り払い拝殿を締め切り、熊野神社の外宮として活用した。

そうすれば、川上神社と上宮の熊野神社の祭神が違うことも、小路(しゅうじ)という古代の読み方が残っているのも納得できる。

さてどうだろうか。

雪浦川

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