土師野尾 八天狗の鳥居 申・天狗と太蔵の里

長崎県諫早市土師野尾町 八天狗の鳥居

八天狗の鳥居

八天狗への道

申・天狗と太蔵の里 入り口

住所は諫早市だが飯盛地区に近く、大村湾と橘湾の中間の山の中にある。八天岳という山の裾野に、「申・天狗と太蔵の里」という公園が作られていて、今回はそこに向かった。

これは諫早市が行ったビタミンプロジェクト事業で市民が提案したプロジェクトを実行したものである。

退職校長会員による公民館講座 「十二支公園」巡りがスタートラインで、地域の名所巡りウオーキングを楽しんでもらうために、旧五町それぞれの「いちおし公園」を作ったものだ。

私は「申・天狗と太蔵の里」というネーミングと、大きい八天狗の鳥居に惹かれてやってきた。

土師野尾(はじのお)のバス停のそばに、大きな鳥居がある。

その鳥居をくぐり、右手に田んぼがある道を進むと、左側に鳥居がある。そこには「申・天狗と太蔵の里」という立て札が立っている。

その鳥居をくぐり、八天岳裾野を進んでいくと、山道の左手に「申・天狗と太蔵の里」と書かれた杭があり、その道進むと鳥居が立っている。

最初から数えると三の鳥居である。

二の鳥居を過ぎた風景

申・天狗と太蔵の里 三の鳥居

扁額には八天狗と書かれている

申・天狗と太蔵の里

記念碑

その先の道は左右に別れているが、中央に石段が付いた台があり、金百円也と二つ書かれた石板が飾られている。

これは、右手の方と左手の方の史跡に百円出したということのようだ。

この石版を読まれた方のHPが有ったので掲載させていただいた。

「八天祭基會(?) 一金 百圓也 施主 浮(?)田徳之助、左側に「大正五年十月建立 土師ノ尾在郷軍人」、右側に「昭和十四年一月 一金 百四拾圓也 原太良組中」
十二支公園★申の公園&天狗と太蔵の里~諫早市
http://himahima1.cocolog-nifty.com/in/2013/10/post-3b72.html

大正、昭和時代の百円はかなりの価値があったと思う。

 

八天狗

落書き禁止の立て札

八天狗への道

とりあえず左の道を進む。

これ山道は丸木で段が作られていて、整備されていると思い、軽い気持ちで登り始めたのだが、この登りの山道はきつかった。

何度も引き返そうと思ったが、せっかくなのでと、途中何度も休憩をして目的地らしい場所にやっとたどりついく。

入り口

八天狗 御神体

八天狗 御神体

八天狗 御神体

石垣が組まれていて、その奥に石灯籠や手水の石台があり、大きな岩が祀られていた。

この岩が御神体だったのだ。

岩の横には日清戦争戦役の記念碑もある。さらに岩があったのだが、漫画が落書きされている。

どこにでも馬鹿はいるのだが、こんな山の上まで馬鹿が登っていたのかと思うと心底がっかりする。

御神体の岩には、なにか書かれているようだが読めなかった。

この場所の先にも道は続いていたので、登っていったが、途中で丸木で補強された階段部分がなくなっていたので、ここで登るのをやめる。

あとで、HPを探していたら、この先に、八天狗、稲妻大蔵、開墾記念碑と彫られた石碑があるらしい。

山頂手前に置かれた八天狗と稲妻大蔵の石碑 ほーしざきの散歩道HP https://blog.goo.ne.jp/houshizaki/e/fc3eae25f11f413dc704fa2b12fefd9d ヨリ

八天岳の高さは296.7mなので、かなり上まで登ったみたいだ。まあ、私の体力の限界もあるので、これで良しとする。

右へ

土俵

解説板

土俵

登った道を下り、今度は右の石段を登る。

これはすぐ開けた土地に出て、そこには土俵があり、左手に汚れた説明板があった。

「申の公園 天狗と大蔵の里」と書かれ、「その昔、江戸相撲の名力士稲妻大蔵が、幼少の頃にここで天狗と相撲をとったという民話がのこされています」

なるほど。

天狗と大蔵の里とは江戸相撲の名力士稲妻大蔵の事らしい。

という事は、この土俵は江戸時代から、此処にあったものなのか、諫早市が行ったビタミンプロジェクト事業で新しく作ったものなのかが不明である。

こんな場所に土俵があるとは思えないので、新規に作ったのと思う。

歴史を題材にした公園を作るのは良いが、どこまでが作られたものなのかを、曖昧にしているのは、あまり趣味が良いとは思えない。

いろいろ調べたいが、資料もなく、郷土誌にも載っていないので、これ以上調べないことにした。

天狗信仰

諫早市内には八天町という町の地域がある。他の地域には天狗を祀った神社もあるので、諫早は天狗信仰があると言ってもいい街である。

史書には江戸時代に八天狗信仰が流行ったとあり、現在も市内には20点あまりの遺物がある。

伝説の天狗は、風を起こすうちわを持っていることから、火災予防の神様とされている。ただ、家内安全を祈ったというのがよくわからない。これはおまけみたいなものだろう。

まあ、高い山が地域にあり、山岳信仰が盛んなら、そこに集まる修験者たちが天狗のようにも見える。

これといった歴史などはないが、民間信仰の一つである。

諫早にはもう一つ民間信仰が流行っていて、庚申信仰(こうしんしんこう)という。

庚申信仰(こうしんしんこう)とは、中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰(民間信仰)や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。ウィキペディア

もっと簡単に言えば、庚申の日の晩、人が寝入った後に体内にいる三尸の虫(上尸は頭部、中尸は腹部、下尸は脚部にいるとされる)が天に上り、天帝にその人間が犯した罪過を上告するので、その晩は身を慎んで眠らなければよいという。

中国道教はやはり突飛ない発想が多い。からだの中に虫がいるというのはわからないではないが、かなりきもちわるい。

佐賀に庚申塔という遺跡がある。

これが庚申信仰が流行っていた証拠である。佐賀では武家の間で、庚申講・庚申待などを組織し、夜を徹して語り合い酒食の宴を催す、というもの。佐賀県では江戸時代になると各地に講が結成されたとされる。

佐賀藩は諫早の主家である。佐賀で、はやっていれば当然諫早でも流行るのである。

庚申(かのえさる、こうしん)とは、干支(かんし、えと)、すなわち十干・十二支の60通りある組み合わせのうちの一つである。

諫早に十二支公園があるのは、民間に中国道教の陰陽五行説が広まっていたからだとも言える。

明治になると鎖国が解かれ、また、時刻もグレゴリオ暦採用に合わせて24時間均等割りに変更されたため、西洋式の時計が再び使われるようになったという。

やはり明治は文明開化の時代だったのだ。

また、庚申信仰では青面金剛と呼ばれる独特の神体を本尊とするが、神道の猿田彦神とも結びついているが、これは「猿」の字が「庚申」の「申」に通じたことと、猿田彦が塞の神とも同一視され、これを「幸神」と書いて「こうしん」とも読み得たことが原因になっているという。

猿田彦と天狗は同一視されることも多く、ここで微妙に諫早の伝説が混じり合っているのだ。

そしてこの事は、事あることに顔を出してくる。

土師野尾(はじのお)

土師野尾(はじのお)のバス停

この八天狗の鳥居の近くが土師野尾(はじのお)という場所である。

珍しい地名だが、土師に深い意味がある。

土師とは、古代、埴輪(はにわ)の製作や陵墓の造営に従事した人のことをいう。

土師氏は「土師」を氏の名とする氏族で、天穂日命の末裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」を、曾孫の身臣は仁徳天皇より改めて土師連姓を与えられたと言われている。

野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖なのだが、この人は相撲の達人とされている。

垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた大和国当麻の地を与えられるとともに、以後垂仁天皇に仕えた。ウィキペディア

なぜ焼き物の祖が、相撲の達人なのかは不明なのだが、前方後円墳などの巨大な陵墓に携わる人々なので、怪力で相撲が強かったと推測されたという説もある。

つまり土師氏は焼き物を作る職人集団で、その祖は相撲の達人ということになる。

実際に土師野尾(はじのお)地区には窯跡の遺跡がある。

最南端の唐津古窯・土師野尾窯跡

長崎県諫早市にも、これら岸岳古窯と同時代に操業していたとされる唐津系古窯跡が有り、古唐津を産した窯では最南端に位置します。

土師野尾焼ハラタラ窯跡、土師野尾焼中道窯跡
https://morikawaten.blog.fc2.com/blog-entry-86.html

ハラタラ窯という名称は火起こしフイゴのタタラから来ているようだし、間違いないようだ。

江戸相撲の名力士稲妻大蔵の実家がこの地域にあったらしく、土師野尾という地域だから、名力士が誕生したとも取れる。

そして、この場所が八天岳の麓なので、名力士は天狗と相撲の練習をしたということだろう。

唐津とのつながり

この地域の焼き物だが、唐津とのつながりも指摘されている。

土師野尾焼は、16世紀、西九州を拠点にはじまった岸嶽系古唐津(きしだけけいこがらつ)とほぼ同時期の操業だったとある。

諫早市森山町に唐比という場所がある。佐賀の唐津と繋がりがあった証拠でもある。

八天岳の北側に諫早市土師野尾町の八天狗がある。 そこも大石に天狗の彫りものがしてある。尾根の両端 祀られているので、裾野の山道は通じていて、江ノ浦から土師野尾を通り諫早に行く道でもあったという。 飯盛町郷土誌

郷土誌にも、これくらいの記述である。

また、ここが公園ということで、整備された場所でもあるし、深い歴史はそれほどないと思う。

天狗よりも土師野尾(はじのお)という古代の氏族名のほうが興味がある。この場所は、今はのどかな田園風景だが、古代は交通の要所で、佐賀の唐津ともつながりがある重要な土地だったと思う。

昔、この場所に来て私説を書いている。よろしかったらどうぞ。

飯盛八天狗の鳥居の謎。松浦水軍と猿田彦伝説のつながり
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1593

 

コメントを残す