大崎町 賀茂神社 最悪の藩主が建てた神社
場所は茂木から海沿いの道を走り、宮摺海水浴場を過ぎて、千々町へ行く手前に、大崎という町があり、その集落の中にある。
大きい道から、海の集落の方に下っていく道の途中に石段があり、その奥にある。
場所がわからず、地元の人に聞いてやっと辿り着く。
道は草が生い茂り、ソテツが大きく育っている場所に一の鳥居がある。
その先に急な石段があり、上ると参道の左右に石灯籠が設置されていて、更に上ると神社がある。
狭い敷地だが、立派で新しそうな狛犬があり、やや場違いな感じさえする。
石段の上に拝殿がある。木板で作られた社殿で、入り口と窓はサッシ。
鈴の縄が、紅白の長い布で、鈴を見れば鰐口の鈴である。
鰐口の鈴は、だいたい仏寺に付けられるものだ。
拝殿は板張りで、何も置いていなく、赤い絨毯が敷かれている。
天皇陛下御即位大嘗祭と書かれた白い垂れ幕が、神殿の入口の左右に吊るされている。
拝殿を出で神殿の方に回り込む。神殿は拝殿と比べ立派な作りである。
拝殿は近年作り変えられたらしい。
神社の脇には明治百年祭植樹記念と彫られた、大きな自然石の碑が立っている。
全体的に見て小ぶりな古い神社で、近年あまり手が入ってないようだけど、修復はちゃんとされているようだ。
長崎の史書に、この神社が載っていた。
祭神 別雷神
沿革 寛永三年(1607年)三月松倉豊後守の命により建立。大崎名の鎮守社で、八武者大権現神主之を兼務している。(松倉重政創立)
祭神の別雷神(わけいかづちのかみ)だが、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の祭神であり、各地の加茂神社(賀茂神社・鴨神社)で祀られる。
賀茂別雷命とは
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の娘玉依日売(たまよりひめ)が賀茂川の上流で川遊びをしていたとき、丹塗矢(にぬりや)が流れて来たので日売(ひめ)はこれをとって床(とこ)に置き、孕(はら)んで男児を生んだ。日本大百科全書(ニッポニカ)
あまりピンとこないが、賀茂神社といえば、京都で有名な神社で、加茂氏の氏神を祀っているのが加茂神社である。
この神社は古墳時代より皇族に厚く信仰された社であり、皇室を守護する神とされ、厚い崇敬を一心に集めてきたという。
かなりの格式だ。なぜそんな格式の高い神社が、漁村の坂の上にあるのかが不明だ。
松倉重政
その謎は、大崎の神社を建てた松倉豊後守にあると思う。
作家の司馬遼太郎は著書『街道をゆく 17 島原・天草の諸道』の中で、「日本史の中で松倉重政という人物ほど忌むべき存在はすくない」と記している。
また、島原藩初代藩主松倉重政と、2代藩主松倉勝家。恐らくこの2人が、江戸時代ワースト1とワースト2であったことに間違い無いとまで書いている人がいる。
1618年一国一城の制にしたがって従来あった原城と日野江城を廃して島原城の築城を開始する。
禄高4万3千石でありながら10万石の大名の城に匹敵する分不相応な規模の城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うこととなった。
この際、検地を行い、領内の石高を実勢の倍近くに見積もり、領民の限界を超える税を取り立てた。
さらに幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城改築の公儀普請役を請け負い、それらの費用を捻出するために過酷な搾取を重ねた。
寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。
顔に「吉利支丹」という文字の焼き鏝を押す、指を切り落とすなど種々の拷問を行い、寛永4年(1627年)には雲仙地獄で熱湯を使ったキリシタンの拷問・処刑を行うなど、キリシタンや年貢を納められない農民に対し残忍な拷問・処刑を行ったことがオランダ商館長やポルトガル船長の記録に残っている。
子の勝家と共に島原の乱の主因を作った。
簡単に書いてもこれだけの所業が告発されている。
見栄っ張りの殿様の気まぐれ
賀茂神社は京都では超メジャーな神社名なので、島原が見える海岸に、ただの見栄のために作ったと思う。
長崎には賀茂神社はここしかない。
さらに、この場所には京都の賀茂神社に関係しているものが何もないのだ。
とすれば、見栄っ張りの島原の殿様が、長崎に賀茂神社を作りましたという、皇室へのアピールしかないだろう。
そして、これはおそらく事実だと確信している。