川原町 峯島神社 阿闍梨知行を祀る

長崎県長崎市川原町137 峯島神社

為石の海

右手が峯島神社

場所は住吉神社を通り過ぎ、道なりに進み、二本目の右への道を行く。その行き止まりにある。

近くに行っても鳥居も見えないし、間隔の狭い人家ばかりで不安になる。

左手が人家で、其の庭かと思ったが、狭いが神社の境内になる。敷地はコンクリートで固められ、右手に鳥居がある。

その先に、石段があり、社殿が左手に建っている。

ただ、これを神社だという人はいないだろう。古いお堂だ。窓が入口になっていて、其の奥に神棚がある。

三つ巴紋の垂れ幕がかかり、祀られているのは2基の石塔である。

峯島神社

峯島神社

峯島神社

峯島神社

峯島神社 御神体 阿闍梨知行(五輪塔二基)

郷土誌の神社の欄に、長文の説明があった。

峯島神社

鎮座地 三和町川原

祭神 阿闍梨知行(五輪塔二基)

沿革 正暦五年(九九四)、時の領主河原高満は一人娘の遠知姫を失ったが、高満嘆き悲しみ、龍に化身した愛娘の霊を弔らわんとして、熊野より阿闍利知行を呼び寄せ、大池のほとりに祭壇を設けて三・七・二十一日の護摩をたいて、その霊を慰めたと言う。
やがて満願の日に遠智姫が再び現われて、いわく「われ、文珠菩薩なり、 遇して祭らば村人の難を救わん」と、そしてたちまち池中に没したその阿闍梨は自ら文珠菩薩を彫刻し、尊像として祭ったのでそれ以来妖怪も出なくなったと言われる。
知行はその後熊野に帰ることなく、川原に残って生涯を終えた。

峯島神社はその知行の墓と思われるが大小二基の五輪塔は知行以外の何者であるのか、その故事・来歴を記したものは 何もない。
しかし、高満公に関係のある史跡には違いない。そして、阿闍梨知行の子孫と言い伝えられている。 梨知行の子孫と称される一族は大峰姓を名乗って、現在も丁重にお祭りしていると言う。
だが、知行阿闍梨が西下のとき背負って来たと言い伝えられる不動尊は現在は残っていない。神社の近くにある井川は、村人の飲料水として永く恩恵を施し、大旱魃の時でさえ一度も涸れたことが無かった。往年の歴史を物語るかのように三体の水神像は今も静かに鎮座している。

なるほど、これですべてが分かる。

郷土誌にこれだけ長文の解説が載るのは珍しい。それだけ重要だということになる。

河原高満だが、平安時代に四国からやってきたと言われている。

それから何百年も河原一族がこのあたりを支配していたのだ。

河原高満創建とされる神社も多数ある。ただ記録として残っているのは深堀藩の古文書の中だけという。

川原大池の遠知姫の話も不思議である。この話がなにかの逸話なら、一体この場所で何があったのだろうか。

熊野より阿闍利知行は仏像を背負って、長崎の川原まで来たとされている。一説には河原高満の弟ともある。

五輪塔が祀られているのだが、歴史的に見て残存しているのは珍しいらしい。

見た目より、重要視されている峰島神社。

だったらもう少し、見栄えをよくしてほしいと思うのだが…

峯島神社

峯島神社

 

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