国見 烏兎(うと)神社 中国の伝説が名前の元
岩戸神社の次によったのがこの神社で、同じように雲仙の山麓にある。
烏兎(うと)の意味がわからず辞典で引いてみる。
烏兎(うと)とは「金烏玉(きんうぎょくと)」の略。太陽の中に烏?(からす)、月の中に兎(うさぎ)がいるという中国の伝説から。
1 太陽と月。日月(じつげつ)。2 年月。歳月。「―匆匆(そうそう)」
この文字は知らなかった。
カラスとウサギとは変な組み合わせだと思ったが、時間を表す言葉だったと知る。
この神社の解説が、国見町郷土誌に長文の掲載があったので掲載する。
【御祭神】 武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、経津主命(フツヌシ)、大山祇命
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)
天照大御神は、建御雷神かその父伊都之尾羽張を下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷神が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立った建御雷神は、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てるとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主神(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。
タケミカヅチはこの話が有名である。剣の切っ先の上に胡座をかいて座るという、パフォーマンスが斬新だ。武士が大好きな神様の一柱である。
経津主神(フツヌシ)
タケミカヅチと共に、東方の征圧に尽力した武の神。 古事記では、タケミカヅチと同一視されるため物語には登場せず、日本書紀のみの登場となる。 その性質は、刀剣を神格化させたものであるとされ、一説によればフツヌシの「フツ」は刀で物が切れる音、すなわち、その擬音を示しているとも。
この二柱が祭神となれば、武士が祀った神社で間違いなく、この神様は藤原氏の祖先とされている。
(郷土誌)由緒 本神社の創立年月日は不詳であるが相当古くから祀られたものと推測される。もともと山岳信仰からはじまったもので、大山祇命を祭神としている。また口碑によれば本称を麻利支天と申し、石像 体並びに前立木像 一体を祀る。往古はこれらの像を金子坊と申し、烏兎山の山霊をお祀りしたという申し伝えがある。
ただ最初から武士の神社ではなく、大山祇命という山の神様を祀っていた山岳信仰が最初だったようだ。
摩利支天(麻利支天まりしてん)は隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。ウィキペディア
金子坊とは山伏のことだろう。
(郷土誌)また口伝によれば藤原純友死亡後、その一族平氏がこの地方に隠住し、かねて信仰厚い摩利支天を祀ったのがはじまりともいう。
藤原 純友(ふじわら の すみとも)は、平安時代中期の貴族・海賊。瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知られる。純友は、大山積神(オオヤマツミ)を祖先とする伊予の豪族越智氏の一族で今治の高橋郷の高橋友久の子であったが、良範が伊予の国司として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったというものである。ウィキペディア
藤原純友と平氏は関係がないはずである。藤原純友死亡後というのは、その時代のことを言っているのだろうと思う。
ただ、純友の乱は関東で平将門が起こした乱と併せて承平天慶の乱と呼ばれているので、平家と藤原が心通じていたという話もあるので、その事を語っているのかも知れない。
後世、有馬氏・大村氏らは藤原純友の子孫と称した事の理由が下記にある。
純友は子・重太丸と伊予へ逃れたが、同天慶4年6月に今日の宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で没したともいわれているが、資料が乏しく定かではない。ウィキペディア
有馬氏・大村氏は四国から長崎にやってきたことになっている。そこで自分たちは藤原純友の子孫だと言いはったのである。
(郷土誌)そして平氏の一人で平小軍太というものが山伏になり、京都醍醐三宝院の門跡で真言宗当山流の大龍寺を建立しその住職となり、この烏兎神社を代々守って来たといわれている。
(郷土誌)なお平氏一族は この地に隠住しながら農業を営み生活していたが、 当時は源氏一族の天下で、平氏一族とは敵同志で あったため、平姓を多比良姓にあらため、南北朝時代には農業を捨てて武士として返り咲き、多比良城を築き、多比良重通、多比良重純等を中心として有馬氏と通じて南朝側について活躍したといわれている。
(郷土誌)その後有馬氏は延岡に移封されたが、多比良氏はそのまま残って農業などをしていたらしい。ところが島原の乱後、南目方面が無人の状態となったので、当時の島原藩主高力氏のすすめに従って多比良一族も口之津一帯へ移住したのであるが、一族のお天様の信仰はあつく、お天講などをつくってお祀りしていたと伝えられている。
(郷土誌)また年一回は烏兎神社の神官が口之津まで出かけて、御神符をもってお天講に出席してお祭りしたという。これは明治のおわり頃ま でつづいたということであるが、このように、口之津移住後も、多比良一族の烏兎神社信仰は厚く、石灯籠、石段、鳥居等も奉納している。
郷土誌には「多比良一族はお天様の信仰が厚い」ということだが、後半の文では「多比良一族の烏兎神社信仰は厚く」と書かれている。
という事は烏兎神社は「お天様の信仰」という事になる。
烏兎神社は摩利支天信仰だったはずなのに、いつの間にか「お天様の信仰」になったのだろうか。
「案内板によると、元来は摩利支天(まりしてん)を祀っていたものらしい。当地では「お天さん」と呼ばれていたようだ。」
という他のHPの文が載っていた。
「お天さん」が摩利支天の事なのか、戦国時代の日本で信仰されていた「天道思想」なのかが不明だ。
(郷土誌)また烏兎神社は武神として島原藩主松平氏をはじめ、その藩士たちの崇敬厚くよく参拝したといわれ ている。この神社は大杉や椎の大木が繁茂し昼なお暗く狐狸猿声を聞く聖地で、武道の修業に最適とし て、武士たちは数十日間お籠りをして心身の鍛練につとめたという。
また武士たちが戦場へ出陣の時は、必ずここに参 詣して武運を祈願し、その大願成就にはまたお礼参りをしたのである。その後は出征兵士もこの故事に ならい、昭和20年頃まで続いたものである。
烏兎神社の祭神が武甕槌命(タケミカヅチノミコト)他と明記されているので、武人系から信仰されていることは間違いないようだ。
ただ烏兎(うと)という言葉が、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」の略で、太陽の中に烏、月の中に兎?がいるという中国の伝説から来ていることに関しての記述はない。
とても、奥の深い意味を持つ言葉なので、中国の故事に精通している人がつけたと思うのだが、それが山伏なのかは不明である。
案内板には「三本足の烏を知っていますか?」と題した案内板があり、日本サッカーのシンボルマークである八咫烏(やたがらす)の事を書いており、サッカーの名門校の国見高校がお参りに来ていることを書いている。
烏兎神社が天道信仰で、「太陽の中に烏」とい意味に、神武天皇の東征の際の神の鳥、八咫烏をあわせてみたという話は、あながち的外れではないかも知れないと思う。
烏兎神社境内のスギ
町指定天然記念物になっている烏兎神社境内のスギも有名である。
烏兎神社(俗称「お天さん」)社殿の周囲は、神樹大杉をはじめ古い樹木が繁茂し、昼間も薄暗い神域であった。
口伝えによると、元和年間(一六二〇年頃)時の社掌岑権之太夫によって、神木を摩利支天本殿奥の院両側に各一本を植樹したといわれ、その他三本は、寛政年間(一七九五年頃)七代目の社掌によって植樹されたと伝えられている。
また、島原藩の藩船慶福丸はここの杉の大木でつくられたもので、藩主からお礼として、「一つ扇の紋の幕」と「同紋の燈籠一対」が奉納されたといわれている。
現在残されている大杉は、大きいもので幹周り六・三メートル、樹高四十二メートル程である。
国見町教育委員会 平成十二年二月
雲仙岳の中腹に、古代から祀られていたという烏兎という、不思議な名前の神社であ。
山岳信仰で、武人系から信仰されていることだけはよくわかった。
だが私の妄想は、もっと古代に烏兎神社は存在していたのではないかということである。
まず町名の国見。国を見るとはどんな意味なのだろうか。この地域に王国があり、周りを見渡していたという意味なのか。
また、神社のある場所が土黒庚(ヒジクロコウ)というのだが、土黒とは肥沃な土の事を言うのだが、仏教用語では暗黒の国土の意味で現世をいう。
また、この神社から海に向かえば、そこには神代という地名がある。
雲仙には四面宮信仰があるが、この進行もイザナギ・イザナミの国産みの時の九州の呼び名から来ている。
宮崎康平氏のまぼろしの邪馬台国では、島原が邪馬台国だとしている。
そして中国の言葉から来ている烏兎神社という名前。
これらが何を意味しているのかと、妄想の中で反芻しているのだ。
すべてが、古代王国を指し示しているような気がする。
ただのわたしの妄想なのだが、頭から離れない場所である。