国見 神代(こうじろ)神社 雲仙の天孫降臨伝説
烏兎神社から海方向へ道なりに下っていくと、海の近くに神代(こうじろ)神社がある。
小高い丘の上にあり、入り口は道の脇だ。赤い鳥居をくぐると、白い鳥居があり、そこをくぐると幾つもの鳥居がある。
お稲荷さんの鳥居だ。突き進むと道が直角に分かれている。
真っ直ぐ行くと稲荷神社。左に進むと神代神社となる。
稲荷の方は道政院稲荷神社(みちまさいん)という。
1747年神代鍋島家八代茂興公が本藩の名代として桃園天皇即位式参列しその帰路、京都伏見稲荷より御神体の御分身を請い受けたとある。
神代(こうじろ)神社は真っ直ぐな参道の両脇に、石灯籠が設置されていて、社殿の周りは低い白塀に囲まれている。
社殿は古めかしいが、神社形式というより、神仏習合の社のようでお堂という雰囲気もある。
拝殿の中は何もなく、回り込むと立派な神殿があった。
神代神社の説明が郷土誌に載っていたので掲載する。
祭神 菅原道真朝臣命、鍋島豐前守信房公命
祭儀四月二五日、九月一九日
当社の創始時代は、元禄時代で、初め菅原道真朝臣命を奉祠し単に天満宮と称していたが、天保14年(1843)に至って13代鍋島茂坤が初代領主豊前守信房の徳を慕って合祀した。
明治9年(1876)になり神代神社と改称し、村社格の神社となる。明治22年村社に昇格し、明治34年8月に本殿を改築、さらに拝殿も新築して現在に至る。
鍋島家が絡んでいるので、武家らしく低い白塀で囲まれていたのだ。
この場所は鶴亀城の一画だったという。なので細い入り口と枡形の配置なんだろう。
神代(こうじろ)
神社は江戸時代に建てられたもので、あまり興味はない。
それよりも、この神代(こうじろ)という地名が不思議だと思う。
辞典では各地に神代という地名があるらしく、いろんな地域に言い伝えがあるという。
長崎県雲仙市国見町神代。平安時代に記録のある地名。地名はコウジロで「髪白」、「高代」とも表記した。長崎県諫早市付近(旧:高来郡)に鎌倉時代にあった。
日本姓氏語源辞典
https://name-power.net/fn/神代.html
この国見の神代(こうじろ)の地名の由来が複数ある。
その1
雲仙満明寺縁起の中に、天孫降臨は、初め雲仙に降臨され、加無之呂に至る。ここから八代(海荒れて八回目に渡海したので八代の地名がつく)に渡り、それより日向の高千穂に向かったという。この「加無之呂」が神の城(代)、すなわち神代。
その2
景行天皇熊襲征伐の時、神代直という従臣を派遣して、この地域を鎮静させた。その神代氏が土地に残って代々治めたのが地名となった。
その3
延喜式に神代荘園として神代家が載っており、この頃から荘園の主として神代家が台頭して来た。
その2の神代直という従臣の話が一般的だ。
しかし、その1の「天孫降臨は、初め雲仙に降臨され加無之呂に至る」という説は実に面白い。
雲仙の天孫降臨伝説は他所でも聞いたり、読んだりしている。
突拍子もないようだが、温泉神社の四面宮の事を思えば、ありうると思えてくる。
そもそも、古事記に書かれている天孫降臨は、当然事実ではない。大和朝廷が大和の歴史を各地から集めて、朝廷寄りの話に仕上げたものである。
なので、中国の歴史書にのっている邪馬台国の話や東北地方の話は割愛されている。
ただ、古事記の話の元ネタは各地に残っている。
このことに関して、古田武彦氏や「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平氏の話は、邪説扱いされてしまっているのが現状である。
古代史のファンとして、雲仙の麓に残る地名や神社の祭神は、そのもう一つの古代史の残滓と言っていいと思っている。
このあたりの地名は、瑞穂、神代、国見など、古代史に呼応するような地名である。
それだけでもワクワクするのだ。
私達はどこからやって来たのか、そして私達は何者なのか。
私が神社をめぐる理由はそこにある。