大村 今津神社 怨霊を祀る

大村市竹松本町983番地1 今津神社

今津神社

今津神社 一の鳥居

今津神社 参道

今津神社 右手が公園

今津神社 二の鳥居

今津神社

jr竹松駅から海方向に行くと、道路沿いにある。白い大きな鳥居で、両側に社殿まで松の木が植えられていて、その参道を50メートルほど進むと社殿につく。

社殿近くになると、右側におおきな児童公園が作られている。

社殿は、新しく瀟洒な外見できれいだ。

左手に今津神社の祭神と由来が書かれた大きな看板があり、詳しく書かれている。

結構な長文だが書き起こしたので掲載する。(文字間違いがあるかも)

今津神社の由来と祭神

今を至る四四十年余りの昔戦国時代の中頃、大村藩と他国との間にも戦いが繰り返されておりました。天正二年(西暦一五七四年三月二十日、大村藩第十八代藩主純忠のとき諫早領主西郷対馬守純発は自ら兵を指揮し、諫早 本好の奥より領境を越えて、大村領境の尾(現在東大村一丁目)に侵入してきました。 先手の大将は大渡野弥三郎(後に今津神社の祭神となられる)、迎え討つ大村数は最初査瀬の山城に立てこもり防戦しようとしましたが、敵が境の尾方面へ向かいつつあるとの情報に、今道遠江守挑近ほか武将の率いる軍券は急ぎ境の尾へ向かいました。

この戦いは境の尾一番にくり広げられ多数の戦死者を出しました。そして大将券の勝利となり諫早券の先手の大将大渡野弥三郎(後に今津神社の祭神となられる)、迎え討つ大村数は最初査瀬の山城に野弥三郎は負傷して、家来ともちりじりとなり、大村湾方面へと落ち延びてきました。そして海岸の今本部落の黒山と言う 所にたどりつき石に腰を下ろし休憩し、更に五〇メートルばかり海岸へ近づき再び石に腰掛けて居るところを今深部落民に竹槍で殺されました。大変恨みを残して死んだと伝えられています。

ところが、今泳部落一帯に赤痢が流行し部落は全滅の危機に瀕しました。その時部落の長老万五郎と言う人の夢枕に弥三郎の亡金が現れ「思いしったか!我を殺した来りてあるぞ。この炭病を舐めたくば我に発び、神として祀るべし」と伝えら れています。そこて部落民は大渡野弥三郎の愛に深く詫びてこれを供養し社を建てて手厚く祀りました。これが今津神社の 起源てあります。 すると間もなく技術もだんだんと強まり、やがて平和な部落に戻った訳であります。
その後、黒山の地名をとって真山として病気の神として近郷近在から参拝者が押し寄せました。また後年、西彼半島の長浦村(現在の長崎市琴海町)を中心とした地方に伝染病が流行、住民は大変な災難に追いました。そこて対岸の今津部落の病気の神「景山操」に参詣し競いを建てられました。するとだんだん伝染病も治まりやがて平和な村に戻ったと言うこと てあります。
現在長崎市琴海町、西海市西彼町方面から参拝者の多い訳でもあります。 また、地元は勿論川棚、佐世保、諫早方面や 佐賀県山内町等からも参拝者が絶えません。また、現在に至るまて今津神社は幾多の変革がありました。明治二十三年神社改革により祭神を三柱
大渡野弥三郎外
大山祇大神(海上守護神)
少彦名大神(医薬の神)
大己貴大神(医薬の神)

を合祀し今津神社と名称を改められました。昭和三十四年十月海上自衛隊大村航空基地に買収され、今津部落より現在地の竹松本町へ進宮されたわけであります。
例祭 春四月十五日
秋十二月十五日
平成二十七年七月吉日

今津神社

今津神社 拝殿

今津神社 神殿

今津神社 黒山権現腰掛石

大渡野弥三郎愛がすごい。

後の祭神はとってつけた感がある。

黒山権現腰掛石というのもある。

その後一帯に赤痢が発生したが、弥三郎を手厚く供養した結果、疫病は治まり黒山権現として祀ったのが起源である。当所は今津にあったが、昭和34年に遷座された。

つまり弥三郎が黒山権現様ということだ。

大村は大村藩関係の武将を祀る神社が多い。武将を神として祀る場合のパターンとして、不慮の死を遂げた武将を祀る。

大渡野弥三郎も大村藩との戦いで負傷。今津海岸で石に腰かけていたところを部民に後ろから切り付けられ殺害されている。

その後、一帯に赤痢が発生し、大渡野弥三郎が「呪ってやる」と部民の枕元に現れる始末…という話がある。

その結果、神として祀られ、怨霊を鎮めたのである。

平将門の話によく似ている。

日本人の神という概念が推測される事例だと思う。

黒山権現腰掛石

今津神社

 

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